堺の環濠1

室町幕府の体質は「有力守護大名のあつまり」の色が強く幕府の権力は弱かったみたいです。
その幕府の権力を 三代目将軍足利義満 は強化しようとします。
堺、和泉国、紀伊国(堺から和歌山県あたり)を治めていた大名は周防国、長門国(だいたい山口県)から豊前(北九州あたり)を治めていた大内氏25代当主「大内義弘」です。
大内氏は、朝鮮との交易で強大な富を築いていました。
大内義弘は将軍の命令により堺、和泉国、和泉国、紀伊国を治めていた山名氏を打ち破り、南北朝の和睦の功績が認められその3つの国を与えられます。
しかし6つの国を持つようになった巨大な守護大名「大内義弘」に対して
皮肉なことに足利義満は
「あいつちかごろ生意気やなぁ~」となりついに戦になってしまします。
仲が良すぎて仲が悪くなったんですかね・・
これを1399年応永の乱といいます。
その時に堺のぐるりに攻撃の足場を1800ヶ所、見張り台を48ヶ所を備えた環濠が誕生します。
そして周防国あたりからも船の応援を呼び寄せ、協力関係にあった勢力とあわせて応戦します。
一時優勢だった大内方でしたが堺が火攻めで劣勢になり、ついに大内義弘はこの堺で落命しました。
お墓は山口県の 瑠璃光寺にあります。
瑠璃光寺は大内義弘が建立したお寺です。
京都の醍醐寺、奈良の法隆寺、山口の瑠璃光寺は日本の三大五重塔といわれておりすべて国宝に指定されています。
これをきっかけに応仁の乱、戦国時代に突入しますが、ごの環濠は商業用の水路として、そしてこの町をまもる濠として堺の発展に大きくかかわってきます・・・
続きはまた今度mm

↓大内義弘氏が建立した堺の「妙光寺」

Filed under: 堺のお話 — kc-sakai 1:57 PM  Comments (0)
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