内田裕也

挨拶コーナー】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

色鮮やかに咲く紫陽花が雨に映え、晴れ間の青空に心が和む今日この頃、いつもブログコーナーをご高覧いただきましてありがとうございます。
夏の到来を迎え、蒸し暑い日が続いておりますので、お身体ご自愛下さいませ。

【内田裕也】諸説あり
内田裕也
ミュージシャン
昭和十四〜平成三一年(1939〜2019)

兵庫県西宮市に生まれ、大阪府堺市で育ちました。
堺市立大美野小学校を卒業し堺市立三国丘中学校へ入学、やがて清教学園中学校に転入し生徒会副会長を務めます。
そして、大阪市立旭陽中学校へ転入しラグビー部に入部、スポーツや勉強を熱心に取り組みました。

やがて、大阪府立旭高等学校へ入学し野球部に入部しますがエルヴィス・プレスリーに憧れ退学、大阪府立三国丘高等学校に転校し、卒業後は日本大学法学部の夜学へ、しばらくして中退しました。

まもなく、バンドボーイとして音楽生活をスタートさせ、佐川満男とともにバンドボーイ兼ボーカルとしてロカビリー・バンドのブルー・キャップスを結成し大手芸能事務所に所属、同年には音楽フェスティバル「日劇ウエスタンカーニバル」へ初出場します。

次第にロックを強めた活動に転換し、1966年6月のビートルズ日本公演では、尾藤イサオとのツインボーカル、バックにジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズを従えた特別編成のバンドでウェルカム・ビートルズなど数曲を演奏し、前座を務めました。

このようにして、ロックンロール人生の幕が開いていきます・・・
やがて日本のロックのトップとなり牽引、そして数々の名言と伝説エピソードが残されます。
それでは、振り返ってみましょう。

〈名言〉
1:俺がロック一筋で通せたのはヒット曲がなかったから
2:俺は占い師じゃないけど、目を見てたら嘘ついてるかどうか分かるからな
3:ロックンロールに定義はないんだけど、僕はアートの中で一番カッコいいジャンル

〈伝説エピソード〉
1:大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」で活動していたザ・タイガースをスカウトしたといわれています
2:飲食店で和田アキ子と先輩論について喧嘩になりそうになったといわれています
3:「ロックンロール」という決め台詞は、前座を務めたビートルズのメンバー、ジョン・レノンが志半ばでお亡くなりになられたため彼の分もという思いがあるといわれています

圧倒的な存在感でロックンロールを貫き通した人生は、決め台詞とともに多くの方に元気を与えてくれました。
だからこそ、また決め台詞を聞いて元気を与えて欲しいと思うときがあるのです・・・「ロックンロール!」と。

以上、「内田裕也」でした。
最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

*[尾藤イサオ]
百面相や形態模写を得意とした寄席芸人の父と芸人の母に生まれ、中学校時代にエルヴィス・プレスリーに興味を持つ
曲芸師・鏡味小鉄の内弟子となり鏡味鉄太郎を名乗り、太神楽の曲芸師として活躍する
「悲しき願い」が大ヒットし、アニメ「あしたのジョー」の主題歌を担当して人気を集める

*[ジャッキー吉川]
小中学校時代を八王子市で過ごし、高校時代はジーン・クルーパへの憧れから独学でドラムを始める
歌手を希望していたが、高校2年生の時に先輩のブルー・コメッツのリーダー大橋道二の紹介でバンドのバンドボーイとなる
ドラムの演奏技術を磨き続け、ブルー・コメッツの正式メンバーとなり、やがて中心的存在となる
かつて、水泳選手として全国大会で入賞した実力を持っている

【レッツ!トライ!内田裕也クイズコーナー〈難問度:★★★★★〉】
中学校時代に○○機に関する発明コンクールで見事優勝をしました。
さて、この○○に入るのは次のうちどれでしょうか?
1、掃除
2、空気清浄
3、洗濯
正解は、、、次回のブログで発表しますので皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 「宗」の由来クイズ〜正解発表〜 】
令和五年(2023)4月18日のブログ[宗の由来]で出題したクイズの正解は「3、一休さん」です。

【クルーズのオススメグッズ紹介コーナー】
[商品名]古墳キーホルダー
[価格]一個400円(税込)
本日のオススメグッズは、「古墳キーホルダー」です。
古墳ファンなら1つや2つ、お持ちの方もおられるとか?おられないとか?といわれているほど人気が高いグッズです。
ぜひ一度、お手にお取り下さいませ。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: お知らせ,堺のお話,運航日記 — kc-sakai 8:34 PM  Comments (0)

【「宗」の由来】〜諸説あり〜

【挨拶コーナー】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
今年も桜が美しく咲き誇り、笑顔や勇気を与えてくれました。
遡ること晴天の桜満開日、大人の遠足と題して朝早く起きお弁当を作り大仙公園でお花見をして参りました。
幸せなひとときを過ごせたお礼と来年も強く逞しく咲き誇りますようお祈りをして、名残り惜しくその場をあとに致しました。
暑い日も寒い日も乗り越えて今年も咲いてくれた桜に「ありがとう」を伝え・・・

【「宗」の由来】〜諸説あり〜

茜屋宗佐,今井宗久,塩屋宗悦,千宗易(千利休)津田宗及,紅屋宗陽,山上宗二、以上の堺会合衆のメンバーにおいて共通しているのは・・・
偶然なのか?必然なのか?
名前に「宗」がついているというところです。

財力があり、大きな商売を手広く営んでいた商人は「豪商」と呼ばれていました。
その豪商は、同時に「茶人」も多くいたといわれています。
茶道において、師から奥義を全て教えられた弟子につける名前を「茶名」といい、この茶名に「宗」がつくということはイコール茶人であるということになりました。

例えば先に述べたメンバーより、茜屋宗佐は茶人として活動する傍ら輸入雑貨商として活躍していたり、今井宗久は天下一の商人にして天下三宗匠といわれていたり、津田宗及は豪商で蘭奢待を与えられた茶人として活躍していたり、「豪商」であると同時に「茶人」としても活躍していました。
いわば、今で言う「二刀流」ということなのかもしれません。

しかし、この茶名に「宗」が用いられ始めたのは、いつからなのでしょうか?
それは、室町時代の茶人・村田珠光(むらたじゅこう)の後継者・村田宗珠(むらたそうしゅ)が大徳寺より「宗」の一字を授けられたことに遡るといわれています。

村田珠光は、侘び茶の創始者といわれ茶の湯に禅の精神を加え精神的な深みの漂う作法を創り出し、「不完全な美」を唱えました。
茶人と同時に僧といわれ、実子がなく興福寺尊教院で雑務を行う弟子の村田宗珠を養子に迎えます。

村田宗珠は、村田珠光の養子となり後継者として侘び茶の発展に寄与し「市中の山居」を確立させました。
やがて、侘び茶に新風を吹き込んだ確立者として、当時の語録に評された記録が残されています。

つまり、「宗」の由来は・・・
村田宗珠が大徳寺より「宗」の一字を授けられ、それ以来家元から指南を許されると「宗」の字をつけられるようになった、ということでした。

以上、「宗」の由来でした。
最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【レッツ!トライ!「宗」の由来クイズコーナー〈難問度:★★★★★〉】
「宗」の由来は、村田宗珠が大徳寺より「宗」の一字を授けられたことに遡りました。
その大徳寺は、京都にある有数の規模を誇る禅宗寺院で、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、○○○○をはじめとする名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深いといわれています。
さて、この○○○○に入るのは次のうち誰でしょうか?
1、清少納言
2、小野妹子
3、一休さん
正解は、、、次回のブログで発表しますので皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 華岡青洲・鹿城兄弟クイズ〜正解発表〜 】
令和五年(2023)2月13日のブログ[華岡青洲・鹿城兄弟]で出題したクイズの正解は「1、緒方洪庵」です。

【クルーズの見たい!聞きたい!知りたい!情報コーナー】
本年度は、4月1日(土)より運航を開始しております。
多くのお客様にご乗船いただいておりますこと、この場をお借り致しまして、感謝申し上げます。
お一人・ご友人・パートナー・ご家族、様々なシチュエーションでご利用下さいませ。
皆様のひとときに華を添えられるよう、努めて参りたいと思います。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 9:17 PM  Comments (0)

曽呂利新左衛門〜豊臣秀吉を天下取りへ導いた落語家の始祖〜

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

暑さ寒さも彼岸までと申しますが、ひと雨ごとに秋が深まり涼しくなって参りました。
皆様におかれましては、お身体にお気を付けて実り多き秋をお過ごしになられますよう、お祈り申し上げます。

今回は【曽呂利新左衛門】について~諸説あり〜

「何でも好きな褒美をやる」と言われたら何が欲しいですか?
時間?自由?それとも・・・紙袋一枚分のお米?

本姓は杉本氏、名は新左衛門のほか甚右衛門や彦右衛門といい、剃髪後は坂内宗拾(さかうちそうじゅう)と号した曽呂利新左衛門は、堺で刀の鞘を作る鞘師として活躍し、天下一の名人といわれていたほど、極めて巧みな腕前でした。
作られた鞘は、刀が塩梅に収まりソロリと抜けることから「ソロリの新左衛門」と呼ばれ、この名がついたといわれています。

歌道や香道に通じ、絵画・揮毫においてもその多彩な才能を発揮し、茶道は千利休の師でもあった武野紹鷗より学びました。
やがて、豊臣秀吉に御伽衆として仕えます。
この御伽衆というのは、室町時代後期から江戸時代初期にかけて将軍や大名の側近に侍して、相談や雑談に加えて自己経験談に応じたり、書物の内容や語句の意味を説明したりする職業です。
大名・将軍・儒僧・堺の茶人や町人などから仕えた御伽衆を最も多く召し抱えたのは、豊臣秀吉といわれ、その数はなんと800人以上にのぼりました。
その中で、曽呂利新左衛門はユーモアなセンスで御伽衆の中でもトップクラスに上り詰めました。
そんなある日のこと、曽呂利新左衛門は豊臣秀吉よりお呼びがかかります。

・豊臣秀吉「いつの日も楽しませてくれているゆえ、何でも好きな褒美をやるが、何か欲しいものはあるか?」

・曽呂利新左衛門「それでは、有り難きお言葉に甘えて、紙袋一枚分のお米を分けて戴きたいのですがよろしいですか?」

・豊臣秀吉「なんだ、紙袋一枚分でよいのか?」

・曽呂利新左衛門「はい、紙袋一枚分で結構でございます」

しかし、この約束を交わした日から数日間、曽呂利新左衛門は姿を見せませんでした。
すると、心配していた豊臣秀吉の元へ家臣より一報が届きます。
なんと、曽呂利新左衛門は大勢の人を集め、紙を張り合わせて、米蔵が入るほどの大きな紙袋を作っていたのです。
先日交わした「紙袋一枚分の褒美をやる」という約束が頭を過ぎった豊臣秀吉は急いで米蔵へ駆け付けましたが、時は既に遅し、米蔵はその大きな大きな紙袋で包まれていたのでした。
曽呂利新左衛門は満面の笑みを浮かべ、一本取られたと言わんばかりの豊臣秀吉は苦笑いしていたとか、していないとか・・・

つい惹き込まれてしまい、人を楽しませることの難しさを感じさせない多くの逸話は今もなお語り継がれ、愛されています。
堺市堺区市之町東にある屋敷跡には碑が建てられ、同じく堺市堺区にある妙法寺には忌碑が建てられています。
豊臣秀吉を天下取りへ導いた落語家の始祖は、どのような話術で人を楽しませていたのだろうか?と想像を膨らませながら、偲びたいと思います。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

レッツ!トライ!【曽呂利新左衛門クイズ】コーナー〈難問度:★★★〉
日本の各地に曽呂利新左衛門が○○したものが今もなお残されています。
さて、この○○に入るのは次のうちどれでしょうか?
1、建造
2、調理
3、作庭
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 堺市歴史人物クイズ 】~正解発表~
令和四年(2022)7月8日のブログ[堺市歴史人物クイズ]で出題したクイズの正解を発表します。
Q1、千利休(せんのりきゅう)
Q2、与謝野晶子(よさのあきこ)
Q3、曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)
Q4、津田宗及(つだそうぎゅう)
Q5、呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,観光案内,運航日記 — kc-sakai 9:52 PM  Comments (0)

題名: 堺市歴史人物クイズ

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【堺市歴史人物クイズ】〜諸説あり〜

七夕飾りが街を彩り、夏の足音を感じる日々となりました。
今回は、堺市歴史人物クイズを全5問出題します。
クルーズヒントをご参考に、その人物の名言やエピソードも併せてチェックしながら、ぜひトライして下さいませ。
全問正解して、サッパリ!スッキリ!夏の暑さを吹き飛ばしましょう〜。
それでは、レッツゴー!

Q1、千○○(せんの○○○○)
クルーズヒント:茶人、幼名は田中与四郎、法名は千宗易といい、侘び茶の完成者として天下一の茶聖と称されました。
「幸せになりたいのなら、幸せとの出会いに気づけないのも、幸せとの出会いを幸せに感じられないのも、もったいないでしょう」という名言が残されています。

Q2、与謝野○○(よさの○○○)
クルーズヒント:歌人、本名は与謝野志やう、旧姓は鳳(ほう)といい、雑誌「明星」に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となりました。
「人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい」という名言が残されています。

Q3、○○○新左衛門(○○○しんざえもん)
クルーズヒント:落語家の始祖、本名は杉本新左衛門といい、豊臣秀吉に仕えていた800人以上にのぼる御伽衆の中で最も有名といわれています。
その豊臣秀吉より「世はわしの顔が猿に似ているというがどう思うか」と聞かれ、「猿が殿下を慕い似せたのです」と答えたエピソードが残されています。

Q4、○○宗及(○○そうぎゅう)
クルーズヒント:茶人、名は助五郎、天王寺屋宗及とも呼ばれ、堺会合衆の代表的な存在であったといわれています。
天正6年(1578)に織田信長が堺を来訪した際は自邸に訪問を受けるなど重用されていたエピソードが残されています。

Q5、○○助左衛門(○○○すけざえもん)
クルーズヒント:伝説的貿易商人、本名は納屋助左衛門といい、豊臣秀吉にルソンで仕入れた壺など珍品を献上し、日本屈指の豪商として活躍しました。
その豪邸には、庭園に珍花を植え、居室に七宝をちりばめ、狩野永徳が描いた襖絵を飾るなど贅が極められており、招かれた松永久秀が柱に刀で傷をつけたエピソードが残されています。

正解は、次回のブログで発表しますのでぜひチェックして下さいませ。
最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【 山上宗二クイズ 】~正解発表~
令和四年(2022)4月15日のブログ[山上宗二]で出題したクイズの正解は、、、「3、一期一会」です。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 9:34 AM  Comments (0)

山上宗二

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【山上宗二】について~諸説あり〜

山上宗二
茶人
天文十三年〜天正十八年(1544〜1590)

美しく咲いた桜が散りゆく晩春、千利休の一番弟子であった山上宗二という茶人が凄惨な最期を遂げました。

山上宗二は、天文十三年(1544)に堺の薩摩屋という商家に生まれました。
堺の南の山上に住んでいたことからその地名をとったといわれています。

豪商で茶人としても活躍していた父・宗壁の背中を見ながら幼少期より高価な茶器や名具に携わり、茶の湯に徐々に興味を示し、後に師となる千利休と出会い、茶人としての活動をスタートさせました。

永禄八年(1565)、21歳になった山上宗二は千利休や今井宗久をはじめとする茶人を4人招き、華々しい茶会デビューを果たします。

天正元年(1573)、足利義昭を京都から追放し、浅井久政や長政に加え三好義継を滅ぼし、機嫌が良い織田信長より京都妙覚寺で催された茶会に招かれ、明智光秀や細川藤孝と親睦を深めました。

この時、今井宗久は53歳、千利休は51歳、山上宗二が29歳であったことから若くしてとんとん拍子に出世したことが見受けられます。
そして、天正九年(1581)、千利休と共に播磨姫路城の豊臣秀吉を訪ねたことを機に交流を深め、茶頭の一人となりました。

茶人として「堺にての上手にて物をもしり人におさるる事なき」と評価されていた一方、「口悪きものにて人のにくしみものなり」といわれていた山上宗二は、歯に衣きせぬ物言いによって人の憎しみを買うことが多かったといわれています。

師である千利休をはじめとする茶人が豊臣秀吉に好かれようとする態度が気に食わなくなり、「わび」の追求に注力するあまり批判とも取れる見解で非難するようになりました。

その態度は次第に激しさを増し、ついに豊臣秀吉の怒りを買い追放処分を受け、加賀の前田利家に仕えます。
しばらくして、許しを得て堺に戻りますが、再び豊臣秀吉の怒りを買い、堺を去り高野山に逃れます。
そして、既に自身の死を予感していたのか、自ら余すことなく書き記した茶の湯の秘伝書「山上宗二記」を高野山に逃れるまでに3人、さらに没年までに10人前後の弟子や大名などへ贈りました。
そして、豊臣秀吉と関係が悪化していた小田原の北条氏のもとに身を寄せ、小田原に来住します。
この来住により、茶の湯文化の勢いに大きな影響を与え、小田原で茶の湯文化が大流行したといわれています。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉は天下統一のため小田原の北条氏を滅ぼす戦いを始め、小田原城を見通せる石垣山城を築き、千利休が主催となる茶会を連日催しました。
千利休は、山上宗二に豊臣秀吉へ謝罪するよう説得し、面会が叶います。

面会が叶い、ようやく豊臣秀吉から再び許しを得て茶頭として再登用を伝えられますが、なんと山上宗二はこれを断りました。
さらに、茶席に仕えていた北条幻庵に義理立てしてしまい、豊臣秀吉から凄まじい怒りを買ってしまいます。
そして、山上宗二は惨殺される最期を遂げ、46年の人生に幕を降ろしました。

豊臣秀吉の怒りの原因について、明確に説明ができる資料は残されていないといわれています。
その道を極めるというのは今も昔も難しいですが、己を貫き通した山上宗二は一流の茶人として、紛れもなく後世に名を残しました。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

レッツ!トライ!【山上宗二クイズ】コーナー

山上宗二が山上宗二記の中に書き記した四字熟語は次のうちどれでしょうか?
1、暗中模索
2、五里霧中
3、一期一会
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【堺市難読地名クイズ(堺区バージョン)】〜正解発表〜
令和四年(2022)1月24日のブログ[堺市難読地名クイズ〜堺区バージョン〜]で出題したクイズの正解を発表します。
(1)遠里小野町=おりおのちょう
(2)錦綾町=きんりょうちょう
(3)百舌鳥夕雲町=もずせきうんちょう
(4)並松町=なみまつちょう
(5)北旅籠町=きたはたごちょう
(6)九間町=くけんちょう
(7)神明町=しんめいちょう
(8)熊野町=くまのちょう
(9)甲斐町=かいのちょう
(10)神南辺町=かんなべちょう

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話 — kc-sakai 10:58 AM  Comments (0)

堺市難読地名クイズ〜堺区バージョン〜

【年始挨拶】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
謹んで新年のお慶びを申し上げます。
皆様にとりまして、幸多き一年になりますようお祈り申し上げますとともに、新型コロナウイルスの一日でも早い終息、また、堺のんびりクルーズの運航再開をお祈り致します。
一人でも多くの方に一つでも多くの事を発信出来ますよう務めて参りたいと思いますので、本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

今回は【堺市難読地名クイズ〜堺区バージョン〜】諸説あり
新年を迎えた初めてのブログは、堺市難読地名クイズ堺区バージョンを全10問出題します。
クルーズヒントをご参考に、ぜひトライして下さいませ。
それでは、レッツゴー!

(1)遠里小野町=○○○○ちょう
クルーズヒント:万葉集では「とほさとをの(とおさとおの)」と詠まれています。
かつては、「ハリのオヌ」,「ウリノ」,「瓜生野(うりうの)」などと呼ばれ、それが訛って「遠里小野=○○○○」に変わったといわれています。

(2)錦綾町=○○○○○ちょう
クルーズヒント:京都より技量の優れた織物師が堺へ移住後に当地で錦織りや綾織りなどをはじめたといわれています。

(3)百舌鳥夕雲町=○○○○○○ちょう
クルーズヒント:慶長から寛文に至る総検地以後に開かれた耕地を新田と呼び、その初めが夕雲開(「万代(もず)新田」)でした。
夕雲開は、幕府代官〈高西夕雲〉という方が新田の開発にあたったといわれています。

(4)並松町=○○○○ちょう
クルーズヒント:寛永年間に街道の両側に松の木が植えられて以来、並松や松中と通称されていたといわれています。

(5)北旅籠町=○○○○○ちょう
クルーズヒント:堺の町の南北の入り口にあたる当地に旅籠があったといわれています。

(6)九間町=○○○ちょう
クルーズヒント:大同元年(806)に弘法大師が唐より帰国された翌年に京都へ行かれる途中、当地に四面九間の堂を建立し布教されたといわれています。

(7)神明町=○○○○ちょう
クルーズヒント:奈良時代初期創建といわれる、神明神社(菅原神社に合祀)が当地にあったといわれています。

(8)熊野町=○○○ちょう
クルーズヒント:湯屋(風呂屋)が当地に多く並んでいたといわれています。

(9)甲斐町=○○○ちょう
クルーズヒント:戦国期からある町名で、神功皇后が当地に甲を納めまつったといわれています。

(10)神南辺町=○○○○ちょう
クルーズヒント:鋳物師の名人から社会福祉に尽力した〈神南辺道心〉という方が当地に住んでいたといわれています。

正解は、次回のブログで発表しますのでぜひチェックして下さいませ。
最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【さいとう・たかをクイズ】~正解発表~
令和三年(2021)11月1日のブログ[さいとう・たかを]で出題したクイズの正解は、、、「2、6,000部 」です。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,未分類,観光案内 — kc-sakai 5:13 PM  Comments (0)

さいとう・たかを〜革新をもたらした劇画界の代表的人物〜

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【さいとう・たかを】について~諸説あり〜

さいとう・たかを
劇画家
昭和十一年~令和三年(1936~2021)

劇画家さいとう・たかを(齊藤隆夫)先生が9月24日、お亡くなりになられました。
〈ゴルゴ13〉をはじめとする数々のヒット作品を生み出した、さいとう・たかを先生を偲びたいと思います。

5人兄弟の末子として和歌山県和歌山市に生まれ、小学校1年生の2学期に大阪府堺市の福泉(現在の堺市西区山田)に移り住み、母親が女手一つで5人を育てながら理髪店を営んでいたといわれています。
絵を描くことと映画を見ることが好きで、お小遣いが貯まると鳳や堺東にあった映画館へ通いながら、実家の理髪店を手伝いました。
福泉中学校を卒業後は、理容師になるため理容学校で知識や技術を身に付け、姉と実家の理髪店を継ぎ、繁盛したといわれています。
しかし、「絵を描きたい」という気持ちが膨らんでいき、母親から1年間の猶予を許してもらい、朝から夜まで実家の理髪店で働きながら夜中に漫画を描くという生活を続けました。
そして1年後、〈空気男爵〉を完成させ大阪の貸本出版社日の丸文庫に持ち込みました。
ところが、日の丸文庫の社長に等倍の紙に漫画を描いたことを指摘され、更に1年かけて描き直し、1年後に漫画家デビューが決定します。
それ以降、看板漫画家として単行本を次々と発表し、専念するため実家の理髪店を辞めたいと母親に打ち明けました。
すると、「絵を描いて食べていけるわけがない」と母親は激怒してしまい、漫画を嫌うようになりました。
漫画家になることを認めてもらえないまま、まもなくして上京し、漫画仲間との「劇画工房」結成を経て、さいとう・プロダクションを設立しました。
そして、「漫画は一人で描く」という常識を覆し、インターネットがない時代に莫大な資料に基づいて人物・背景・乗り物・武器など得意の分野を描き、その優れた才能を持ち寄ることで優れた作品にするという分業制の態勢を確立しました。
いわば、ライバルをパートナーにするという分業制は、革新をもたらした瞬間でした。
それから、現在の堺市西区山田にあった山田温泉という割烹旅館をモデルにして描いた2冊目の単行本〈幽霊館〉、〈鬼平犯科帳〉、国籍・年齢・本名が全て不明の超一流スナイパーの活躍を描いた〈ゴルゴ13〉、〈台風五郎〉ほか、多くの作品が誕生し時代を超えて愛され続けてきました。
中でも、主人公の名前を福泉中学校の担任の先生の名前から由来したといわれている代表作〈ゴルゴ13〉は、昭和43年(1968)より連載が開始し現在も連載中の長寿漫画として単行本の刊行数が世界一となる201巻、令和3年(2021)3月には累計発行部数が3億部を突破、同年7月には「最も発行巻数が多い単一漫画シリーズ」としてギネス世界記録に認定されました。
徹底したリアリティーで人間を描くからこそ、「その正義とやらはお前たちだけの正義じゃないのか?」や「10%の才能と20%の努力、そして30%の臆病さ、残る40%は運だろうな」など、作品の中の多くの名言が心に刺さりました。
善悪を超越した主人公を生み出し、どんなときもどんなことがあっても大きな心で信念をぶらさず冷静に人間のリアリティーを描き続け、平成15年(2003)に紫綬褒章、平成22年(2010)に旭日小綬章ほか、多くの賞を受賞しました。

平成30年(2018)に連載50年を迎えた〈ゴルゴ13〉は、さいとう・たかを先生のご遺志のもと連載継続が発表されました。
「だが、物語は続く」これからも、いつまでも。

さいとう・たかを先生のご逝去を悼み、心から哀悼の意を表しますとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

レッツ!トライ!【さいとう・たかをクイズ】コーナー
「私の作品が、個人的に思い入れある堺市に、少しでもお役に立てるならば幸いです。」と、平成24年(2012)より堺名誉大使を務めている堺市に協力し、新型コロナウイルス感染拡大防止の啓発ポスターが作成されました。
このポスターが作成された枚数は、次のうちどれでしょうか?
1、3,000部
2、6,000部
3、9,000部
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 ザビエル公園と黄金の日々クイズ 】~正解発表~
令和三年(2021)7月16日のブログ[ザビエル公園と黄金の日々]で出題したクイズの正解は、、、「1、戎公園」です。
大阪で唯一の路面電車・阪堺電気軌道の花田口駅前にある緑溢れた公園です。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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ザビエル公園と黄金の日々

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【ザビエル公園と黄金の日々】について~諸説あり
天文十九年(1550)12月、厳しい寒さを耐え抜き、堺を訪問したイエズス会宣教師:フランシスコ・ザビエルは、堺の豪商:日比屋了慶より、手厚いもてなしを受けていました。
日比屋了慶は、堺櫛屋町に構えた当時は珍しい瓦葺き木造3階建ての屋敷を聖堂にあて、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスをはじめとする宣教師の布教活動の拠点として手厚くもてなし、自らも洗礼を受けました。
聖堂にあてた屋敷は「南蛮寺」といわれ、永禄六年(1563)12月には日本で初めてのクリスマスがこの南蛮寺で行われたといわれています。

日比屋了慶の屋敷周辺には、黄金の日々を謳歌し自治都市として栄えていた堺を支えた小西行長や武野紹鴎、今井宗久や千利休の屋敷もありました。
屋敷に茶室を設え、茶人としても著名であった日比屋了慶は、特に千利休と交流を深めました。
また、利休七哲といわれた千利休の七人の高弟の中にキリシタン大名がいたことから、キリスト教が茶道に大きな影響を与えたといわれています。

堺の豪商:日比屋了慶が堺櫛屋町に構え、「南蛮寺」といわれた屋敷は、昭和二四年(1949)にフランシスコ・ザビエルの来航400年を記念した公園が開設され、「ザビエル公園」と命名されました。
日比屋了慶が多くの人を手厚くもてなした屋敷は、約470年という長い年月を経て、現在も多くの人から愛され、春の桜や秋の紅葉が私達を手厚くもてなしてくれています。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。


レッツ!トライ!【ザビエル公園と黄金の日々クイズ】コーナー
ザビエル公園の正式名称は次のうちどれでしょうか?
1、戎公園
2、日比屋公園
3、南蛮寺公園
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 横山やすしクイズ 】~正解発表~
令和三年(2021)4月18日のブログ[横山やすし]で出題したクイズの正解は、、、「1、自衛隊」です。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,日記,観光案内,運航日記 — kc-sakai 12:05 PM  Comments (0)

横山やすし~20世紀を代表する天才漫才師~

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【横山やすし】について~諸説あり~

横山やすし
漫才師
昭和十九年~平成八年(1944~1996)

本名は木村雄二、愛称はやっさん、20世紀を代表する天才漫才師と称賛された横山やすしは、旅回り一座団員の男性と沖の島にある旅館の仲居をしていた島民女性との間に高知県宿毛市沖の島で生まれました。
分娩を引き受けたのは、沖の島伝説の保健師として地域医療発展の先駆けとなった荒木初子といわれています。

生後まもなく、高知県に疎開していた木村家へ養子に入り、大阪府堺市堺区神石市之町で育ちました。
堺市立神石小学校入学後は友人とよくスポーツをして過ごし、堺市立旭中学校入学後は陸上部に入部し、優秀な選手として活躍しました。

中学校生活を謳歌する傍ら、友人の岡田好弘(堺正スケ)を誘い、ラジオ素人参加番組に出演したことを機に漫才師になることを決意し、卒業式では拍手喝采の中で漫才を披露したといわれています。
卒業後は、現在の松竹芸能である松竹新演芸に入社し、〈堺伸スケ・正スケ〉と命名され、少年漫才師としてデビューしました。
しかし、デビューから2年後に解散し、横山ノックの弟子となり、弟子修業に励み、〈横山やすし〉の芸名を与えられ、吉本興業に移籍しました。
それからしばらくして、西川きよしと〈やすしきよし〉でデビューしました。

台本を2回読むだけで漫才の流れを掴むやすしがネタの大半を作成し、きよしがそのネタに訂正を加え、2人は他の漫才師を徹底的に分析しました。
そして、他の漫才師にない動きが面白いどつき漫才を目指すようになり、舞台の中央にあるマイクから離れて動き回るという革新的な漫才を編み出しました。

ボケとツッコミが交互に入れ替わる独特な型破り漫才の基礎となり、結成から1年後に第2回上方漫才大賞〔新人賞〕を獲得したほか、 結成から5年後に第5回上方漫才大賞〔大賞〕を受賞し、テレビ出演を果たし、「人生が右肩上がりになるように」と右肩上がりに書いていたサインの通り、その地位を不動のものとしていきました。
また、20数人の弟子の中には、ホラ吹き漫才の第一人者〈横山たかし・ひろし〉が上方漫才大賞〔大賞〕を受賞しました。

さらに、後に競艇界で多くの記録を打ち、「モンスター」と言う異名を取る、堺市立旭中学校時代の同級生で親友の野中和夫を誘い、ライフワークとなるモーターボート(競艇)を始めると、やすしはその才能を発揮し、アマチュアのレースに出場するようになりました。
山梨県の本栖湖にあった研修所で受験し、視力の合格基準である1.0に及ばず不合格となってしまいましたが、全日本K400選手権大会(アマチュア)に優勝し、活躍しました。
ところが、何事にも一番を目指し、特に漫才に対して一切の妥協を許さず、常に最高の笑いを極み続けるが故に理想の笑いでなければ自身を責め、酒に溺れてしまいました。
とある番組で、「これからどのように生きていきたいか」との問いに、やすしは「普通どおり、機嫌よう朝起きてやな、機嫌よう飲み食いしてやな、機嫌よう芸できたらええ」と、答えた数年後に51歳という若さで、この世を去りました。

昭和や平成の時を経た令和の今もなお、やすしの笑いは絶大な人気を誇り、多くの人から支持されています。
天国から、笑いを届けてくれることを願い、後にも先にも現れないだろう伝説の漫才師を偲びたいと思います。

ほな、次回のブログもチェックせな、怒るでしかし!

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

レッツ!トライ!【横山やすしクイズ】コーナー
横山やすしが競艇選手の他に抱いていたといわれている夢は、次のうちどれでしょうか?
1、自衛隊
2、消防士
3、警察官
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 堺会合衆黒幕説から見る本能寺の変クイズ 】~正解発表~

令和三年(2021)2月7日のブログ[堺三大まつり]で出題したクイズの正解は、、、「1、妙国寺」です。
本能寺の変前日に開催された堺茶会の接待を受け終えた徳川家康が宿泊したといわれていわれいる妙国寺には、樹齢1,100年の大蘇鉄が国の天然記念物に指定されています。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 11:54 PM  Comments (0)

地震の教訓を語り継ぐ「擁護璽」

大浜公園に今から166年前の1855年に建てられた「擁護璽」(ヨウゴジ)という大きな石碑があります。

その石碑の裏側には、1854年に東海地震と南海地震が立て続けに起きた時、津波や家、橋の倒壊など多数被害が出ましたが、みんな神社の庭など広いところに避難したので犠牲者が出なかった、というようなことが書かれております。

それは314年前の1707年の東海地震、南海地震のとき(この年に富士山も爆発しています)、家や橋が倒壊して船で逃げようとしたところ津波に飲み込まれて多数の犠牲者が出たという経験が語り継がれていたのでその教訓によって犠牲者が出なかったそうです。

2月13日深夜、東日本大震災の余震と見られる大きな地震がありました。南海地震もいつ起きてもおかしくない状態なので非常時に備えておきたいものです。

Filed under: 堺のお話,運航日記 — kc-sakai 1:44 PM  Comments (0)
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