内田裕也

挨拶コーナー】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

色鮮やかに咲く紫陽花が雨に映え、晴れ間の青空に心が和む今日この頃、いつもブログコーナーをご高覧いただきましてありがとうございます。
夏の到来を迎え、蒸し暑い日が続いておりますので、お身体ご自愛下さいませ。

【内田裕也】諸説あり
内田裕也
ミュージシャン
昭和十四〜平成三一年(1939〜2019)

兵庫県西宮市に生まれ、大阪府堺市で育ちました。
堺市立大美野小学校を卒業し堺市立三国丘中学校へ入学、やがて清教学園中学校に転入し生徒会副会長を務めます。
そして、大阪市立旭陽中学校へ転入しラグビー部に入部、スポーツや勉強を熱心に取り組みました。

やがて、大阪府立旭高等学校へ入学し野球部に入部しますがエルヴィス・プレスリーに憧れ退学、大阪府立三国丘高等学校に転校し、卒業後は日本大学法学部の夜学へ、しばらくして中退しました。

まもなく、バンドボーイとして音楽生活をスタートさせ、佐川満男とともにバンドボーイ兼ボーカルとしてロカビリー・バンドのブルー・キャップスを結成し大手芸能事務所に所属、同年には音楽フェスティバル「日劇ウエスタンカーニバル」へ初出場します。

次第にロックを強めた活動に転換し、1966年6月のビートルズ日本公演では、尾藤イサオとのツインボーカル、バックにジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズを従えた特別編成のバンドでウェルカム・ビートルズなど数曲を演奏し、前座を務めました。

このようにして、ロックンロール人生の幕が開いていきます・・・
やがて日本のロックのトップとなり牽引、そして数々の名言と伝説エピソードが残されます。
それでは、振り返ってみましょう。

〈名言〉
1:俺がロック一筋で通せたのはヒット曲がなかったから
2:俺は占い師じゃないけど、目を見てたら嘘ついてるかどうか分かるからな
3:ロックンロールに定義はないんだけど、僕はアートの中で一番カッコいいジャンル

〈伝説エピソード〉
1:大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」で活動していたザ・タイガースをスカウトしたといわれています
2:飲食店で和田アキ子と先輩論について喧嘩になりそうになったといわれています
3:「ロックンロール」という決め台詞は、前座を務めたビートルズのメンバー、ジョン・レノンが志半ばでお亡くなりになられたため彼の分もという思いがあるといわれています

圧倒的な存在感でロックンロールを貫き通した人生は、決め台詞とともに多くの方に元気を与えてくれました。
だからこそ、また決め台詞を聞いて元気を与えて欲しいと思うときがあるのです・・・「ロックンロール!」と。

以上、「内田裕也」でした。
最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

*[尾藤イサオ]
百面相や形態模写を得意とした寄席芸人の父と芸人の母に生まれ、中学校時代にエルヴィス・プレスリーに興味を持つ
曲芸師・鏡味小鉄の内弟子となり鏡味鉄太郎を名乗り、太神楽の曲芸師として活躍する
「悲しき願い」が大ヒットし、アニメ「あしたのジョー」の主題歌を担当して人気を集める

*[ジャッキー吉川]
小中学校時代を八王子市で過ごし、高校時代はジーン・クルーパへの憧れから独学でドラムを始める
歌手を希望していたが、高校2年生の時に先輩のブルー・コメッツのリーダー大橋道二の紹介でバンドのバンドボーイとなる
ドラムの演奏技術を磨き続け、ブルー・コメッツの正式メンバーとなり、やがて中心的存在となる
かつて、水泳選手として全国大会で入賞した実力を持っている

【レッツ!トライ!内田裕也クイズコーナー〈難問度:★★★★★〉】
中学校時代に○○機に関する発明コンクールで見事優勝をしました。
さて、この○○に入るのは次のうちどれでしょうか?
1、掃除
2、空気清浄
3、洗濯
正解は、、、次回のブログで発表しますので皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 「宗」の由来クイズ〜正解発表〜 】
令和五年(2023)4月18日のブログ[宗の由来]で出題したクイズの正解は「3、一休さん」です。

【クルーズのオススメグッズ紹介コーナー】
[商品名]古墳キーホルダー
[価格]一個400円(税込)
本日のオススメグッズは、「古墳キーホルダー」です。
古墳ファンなら1つや2つ、お持ちの方もおられるとか?おられないとか?といわれているほど人気が高いグッズです。
ぜひ一度、お手にお取り下さいませ。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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【華岡青洲・鹿城兄弟〜そして少林寺〜】諸説あり

【挨拶コーナー】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
立春を迎え、煮物や天麩羅でいただく春野菜がとても美味しい季節となりました。
皆様にとりまして、幸多き今春になりますようお祈り申し上げます。
さて、ブログコーナーを手軽に!身近に!合間に!チェックしていただけますよう、一人でも多くの方に一つでも多くの事を発信出来ますよう務めて参りたいと思いますので、引き続き宜しくお願い申し上げます。

【華岡青洲・鹿城兄弟〜そして少林寺〜】諸説あり
兄・華岡青洲(はなおかせいしゅう)
医師
宝暦十年〜天保六年(1760〜1835)

弟・華岡鹿城(はなおかろくじょう)
医師
安永八年〜文政十年(1779〜1827)

「北岡南岡に譲らず」といわれた兄弟がいました。
北岡は弟・華岡鹿城を、南岡は兄・華岡青洲のことを指しているといわれています。

兄・青洲は、和歌山県紀の川市で代々医術を家業とし南蛮流外科術を身に付けた父・直道と美しく憧れられていた母・於継の長男として生まれました。
地元の方から厚く信頼を寄せられていた父の姿に感銘を受け、医師を志し京都へ遊学します。
やがて、和歌山へ帰郷し跡を継ぎ開業してまもなく父が亡くなり、京都への遊学を支援するため織物や薬草栽培をして支援してくれていた優しい妹・於勝が乳癌で亡くなります。
「手術さえ出来ていれば妹の命を救えたかもしれない」という悔しい思いや「麻酔薬が無い手術には耐え難い痛みや苦しみを伴うため、手術における患者の痛みや苦しみを和らげたい」という思いから、寝る間も惜しんで研究を重ね、いつどんなときも傍で支え続けてくれた妻・加恵と想いを一つにし、ついに麻酔薬「通仙散(つうせんさん)」を開発しました。
そして、世界で初めて全身麻酔を用いた乳癌手術を成功させます。
やがて、全国から手術を希望する者や入門を希望する者が殺到し、門下生の育成にも力を注げるよう、住居兼病院及び医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設け、1000人を超える門下生を育てました。
さらに、春林軒の分塾「合水堂(がっすいどう)」を中之島に設けます。
治療に加え薬の調合や発明、医塾での医学教育、また術式の考案や手術器具の考案改良を行い、「医聖」と称されました。
患者に寄り添い続け、深い悲しみと向き合いながら家族の献身的な支えのもと、情熱を注ぎ続けたからこそ、世界の医学史に残る偉大な功績を残せたのかもしれません。

弟・鹿城は、和歌山県紀の川市で父・直道と母・於継の四男として生まれました。
20歳離れた兄・青洲に倣い17歳で京都へ遊学します。
「気血水説」を唱えた吉益南涯(よしますなんがい)に古医方を、「阿波志」を完成させた佐野山陰(さのさんいん)に儒学を学び、和歌山へ帰郷しました。
そして、華岡流外科術を身に付けた後に兄が設けた医塾「春林軒」に従事します。
やがて、春林軒の分塾として中之島に設けた「合水堂」を任され、治療や指導に尽力したといわれています。
手術は兄を凌ぐほどと言われ、その技術は高く評価されました。
「より多くの命を救いたい」という想いと共に今もなおその名が刻まれています。

そして!そして?そして!?華岡青洲・鹿城兄弟と堺の関係です。
その関係とは、文化八年(1811)に兄・青洲の意を受け、弟・鹿城はある地で診療所を開設するのですが、、、
その診療所を開設した地というのが・・・堺の少林寺なのでした。

以上、「華岡青洲・鹿城兄弟〜そして少林寺〜」でした。
最後までありがとうございました。
また、本年も船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【レッツ!トライ!華岡青洲・鹿城兄弟クイズコーナー〈難問度:★★★★★〉】
当時、華岡青洲のライバル的存在といわれていた人物は次のうち誰でしょうか?
1、緒方洪庵
2、北条義時
3、渋沢栄一
正解は、、、次回のブログで発表しますので皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 堺会合衆の10人クイズ〜正解発表〜 】
令和四年(2022)12月13日のブログ[堺会合衆の10人]で出題したクイズの正解は「1、36人」です。
*36人説について(諸説あり)
3人1組で一ヶ月間にわたり政務を担当していたことにより一年で36人になったといわれています。

【クルーズの見たい!聞きたい!知りたい!情報コーナー】
堺のんびりクルーズでは、現在ボランティアスタッフを募集しております。
知れば知るほど虜になる堺を観濠クルーズでしかご覧頂けない特別な景色のもと、地上とはまたひと味もふた味も違う堺の魅力を一人でも多くの方に一つでも多くの事を一緒に発信してみませんか?
ぜひ、お気軽にお問合せ下さいませ。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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堺会合衆の10人

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
「もういくつ寝るとお〜正〜月〜♪」ということで今年も残すところあとわずかとなりました。
今年もブログをご高覧いただきまして、誠にありがとうございました。
来年も皆様により良いブログをお届けして参りたいと思いますので、引き続き宜しくお願い申し上げます。
皆様が良いお年をお迎えになられますよう、心よりお祈り申し上げます。

今回は「堺会合衆の10人」について・・・

【堺会合衆の10人】〜諸説あり〜
「この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と、弘治2年(1556)に堺の様子を見た宣教師のガスパル・ヴィレラが、ある書簡に記しました。
執政官というのは、堺会合衆を指しているといわれています。
この「堺会合衆」とは、室町時代から安土桃山時代に堺の豪商や町衆のリーダーで構成された組織です。
メンバーは、茜屋宗佐,油屋常琢,今井宗久,塩屋宗悦,千利休,高三隆達,津田宗及,紅屋宗陽,松江隆仙,山上宗二の10人といわれています。
この10人は一体どのような人物だったのか、1人ずつ紐解いて参りましょう。

・[茜屋宗佐(あかねやそうさ)]茶人・商人
天王寺屋会記に名がみえる茶人
武野紹鴎より茶の湯を学び、茶人として活動する傍ら輸入雑貨商として活躍しました。
また、鶴首茶入れや柿形茶入れなどをはじめとする多くの名物茶器を所有していたといわれています。

・[油屋常琢(あぶらやじょうたく)]豪商
徳川家康の伊賀ルートを手助けした豪商
本姓は伊達といい、油屋という薬師問屋を営んでいたことから油屋と呼ばれ、油屋肩衝などをはじめとする多くの名物茶器を所有していたといわれています。
また、堺に建立されていた妙国寺を完成させました。
本能寺の変が起きた際、徳川家康はこの妙国寺に宿泊し、油屋常琢の接待を受け、三河への脱出を手助けされたといわれています。

・[今井宗久(いまいそうきゅう)]商人・茶人
天下一の商人にして天下三宗匠
大和国高市郡今井村に生まれ、立身出世を志し南蛮貿易で活気溢れる堺へ出たといわれています。
商人として修業を重ねると同時に教養を身に付けるため、武野紹鴎より茶の湯を学び、やがて鉄砲や火薬製造にも携わり、堺での立場を確立しました。
織田信長の天下統一を側面から支え、総合軍事産業の事業家として巨万の富を築き、一代で天下一の商人となりました。

・[塩屋宗悦(しおやそうえつ)]茶人
多くの名物茶器を所有していた茶人
武野紹鴎より茶の湯を学び、茶人として活動し、天文23年(1554)以降、毎年茶会を催していたといわれています。
また、天正元年(1573)11月23日に織田信長が妙覚寺で催した茶会に津田宗及や松江隆仙と共に招かれ、汁・刺身・茶碗をのせた三の膳まで用意され、手厚くもてなされました。

・[千利休(せんのりきゅう)]茶人・商人
侘び茶を大成させた天下一の茶人
堺で塩魚を扱う商人ないし、その商人たちに倉庫を貸す「問」といわれている家業の跡取りとして、品位や教養を身に付けるため、武野紹鴎より茶の湯を学びました。
やがて、武将が次々と千利休に弟子入りし、後に利休七哲という優れた高弟が生まれ、侘び茶を大成させました。
また、北野大茶会の茶頭を務めるなど、天下一の茶人として名声が世に広まりました。
しかし、豊臣秀吉により自害に追い込まれ、切腹という壮絶な最期を遂げました。

・[高三隆達(たかさぶりゅうたつ)]僧・小歌隆達節創始者
堺が生んだ天才シンガーソングライター
堺で薬種問屋を営む末子として生まれ、跡取りではないため日蓮宗顕本寺の僧となりました。
しかし、兄の没後に還俗し家業を補佐します。
その傍ら、連歌・声曲・書画などに優れていたことから作詞作曲を行うと独特な声調の隆達節が大ヒットし、500首以上の歌が誕生しました。
また、「堺流書道」の達人として豊臣秀吉にも召し出されたといわれ、多彩な才能を発揮しました。

・[津田宗及(つだそうぎゅう)]商人・茶人
蘭奢待を与えられた茶人
堺南荘の豪商で茶人としても活躍していた父・宗達より茶の湯を学びました。
やがて、織田信長の茶頭の一人となり、千利休や今井宗久と共に「天下三宗匠」と呼ばれました。
また、天正2年(1574)に堺会合衆の10人が織田信長に招かれた相国寺茶会では、津田宗及と千利休が織田信長から蘭奢待を与えられたといわれています。
そして、天正6年(1578)に織田信長が堺を来訪した際は、自邸に訪問を受けるなど重用されていたエピソードも残されています。

・[紅屋宗陽(べにやそうよう)]商人・茶人
堺会合衆の中でもトップクラスの存在
武野紹鴎より茶の湯を学び、度々茶会を催したといわれています。
しかし、織田信長が各地の勢力に将軍への忠誠を示すため大義名分をつけ、堺へは2万貫(現在の価格にして約20~30億円)を課しますが、紅屋宗陽はこれを拒否します。
しかし、今井宗久の説得により要求を受け入れる方針に変更したことを機に織田信長との関係を深めました。
ところが、天正11年(1583)に豊臣秀吉の怒りを買い、追放以上の刑に処せられた者の領地や財産を没収される闕所(けっしょ)処分を受け、所有していた茶器を没収され、以後消息がわからなくなったといわれています。

・[松江隆仙(まつえりゅうせん)]商人
織田信長に手厚くもてなされた商人
天正元年(1573)に織田信長が妙覚寺で催した茶会に塩屋宗悦や津田宗及と共に招かれました。
織田信長より手厚くもてなされたといわれているこの茶会、床には日本の水墨画に大きな影響を与えた牧谿(もっけい)の「洞庭秋月(どうていしゅうげつ)」の絵、そして斎藤道三と縁のある京の茶人・不住庵梅雪(ふじゅうあんばいせつ)が茶頭を務め、贅を尽くした茶会といわれています。

・[山上宗二(やまのうえそうじ)]茶人
千利休の一番弟子
堺の薩摩屋という商家に生まれ、堺の南の山上に住んでいたことからその地名をとったといわれています。
豪商で茶人としても活躍していた父・宗壁の背中を見ながら、幼少期より高価な茶器や名具に携わり、茶の湯に徐々に興味を示します。
そして、後に師となる千利休と出会い、茶人としての活動をスタートさせました。
千利休の一番弟子といわれ、茶人として「堺にての上手にて物をもしり人におさるる事なき」と評価されていました。
一方、「口悪きものにて人のにくしみものなり」といわれていた山上宗二は、やがて豊臣秀吉の怒りを買い、惨殺される最期を遂げ、46年の人生に幕を降ろしました。

以上、「鎌倉殿の13人」ならぬ「堺会合衆の10人」でした。
最後までありがとうございました。
また、来年も船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【レッツ!トライ!堺会合衆の10人クイズコーナー〈難問度:★★★〉】
堺会合衆が構成されていた人数について10人という説ともう一つ説があるといわれていますが、それは次のうちどれでしょうか?
1、36人
2、54人
3、72人
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【曽呂利新左衛門クイズ〜正解発表〜】
令和四年(2022)10月4日のブログ[曽呂利新左衛門]で出題したクイズの正解は「3、作庭」です。

【クルーズのオススメグッズ紹介コーナー】
[商品名]堺クリアファイル
[価格]一枚400円(税込)
*百舌鳥古墳群バージョンは欠品中
本日のオススメグッズは、「堺クリアファイル」です。
表面は堺を代表する4つの図や写真、裏面には堺の書道家・永田峰亭先生の「堺」書と英文での堺の説明文がプリントされていて、堺ファンにはたまらない逸品です。
愛用しているスタッフも多く、お土産用にもご自分用にもお使いいただけます。
ぜひ一度、お手にお取り下さいませ。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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曽呂利新左衛門〜豊臣秀吉を天下取りへ導いた落語家の始祖〜

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

暑さ寒さも彼岸までと申しますが、ひと雨ごとに秋が深まり涼しくなって参りました。
皆様におかれましては、お身体にお気を付けて実り多き秋をお過ごしになられますよう、お祈り申し上げます。

今回は【曽呂利新左衛門】について~諸説あり〜

「何でも好きな褒美をやる」と言われたら何が欲しいですか?
時間?自由?それとも・・・紙袋一枚分のお米?

本姓は杉本氏、名は新左衛門のほか甚右衛門や彦右衛門といい、剃髪後は坂内宗拾(さかうちそうじゅう)と号した曽呂利新左衛門は、堺で刀の鞘を作る鞘師として活躍し、天下一の名人といわれていたほど、極めて巧みな腕前でした。
作られた鞘は、刀が塩梅に収まりソロリと抜けることから「ソロリの新左衛門」と呼ばれ、この名がついたといわれています。

歌道や香道に通じ、絵画・揮毫においてもその多彩な才能を発揮し、茶道は千利休の師でもあった武野紹鷗より学びました。
やがて、豊臣秀吉に御伽衆として仕えます。
この御伽衆というのは、室町時代後期から江戸時代初期にかけて将軍や大名の側近に侍して、相談や雑談に加えて自己経験談に応じたり、書物の内容や語句の意味を説明したりする職業です。
大名・将軍・儒僧・堺の茶人や町人などから仕えた御伽衆を最も多く召し抱えたのは、豊臣秀吉といわれ、その数はなんと800人以上にのぼりました。
その中で、曽呂利新左衛門はユーモアなセンスで御伽衆の中でもトップクラスに上り詰めました。
そんなある日のこと、曽呂利新左衛門は豊臣秀吉よりお呼びがかかります。

・豊臣秀吉「いつの日も楽しませてくれているゆえ、何でも好きな褒美をやるが、何か欲しいものはあるか?」

・曽呂利新左衛門「それでは、有り難きお言葉に甘えて、紙袋一枚分のお米を分けて戴きたいのですがよろしいですか?」

・豊臣秀吉「なんだ、紙袋一枚分でよいのか?」

・曽呂利新左衛門「はい、紙袋一枚分で結構でございます」

しかし、この約束を交わした日から数日間、曽呂利新左衛門は姿を見せませんでした。
すると、心配していた豊臣秀吉の元へ家臣より一報が届きます。
なんと、曽呂利新左衛門は大勢の人を集め、紙を張り合わせて、米蔵が入るほどの大きな紙袋を作っていたのです。
先日交わした「紙袋一枚分の褒美をやる」という約束が頭を過ぎった豊臣秀吉は急いで米蔵へ駆け付けましたが、時は既に遅し、米蔵はその大きな大きな紙袋で包まれていたのでした。
曽呂利新左衛門は満面の笑みを浮かべ、一本取られたと言わんばかりの豊臣秀吉は苦笑いしていたとか、していないとか・・・

つい惹き込まれてしまい、人を楽しませることの難しさを感じさせない多くの逸話は今もなお語り継がれ、愛されています。
堺市堺区市之町東にある屋敷跡には碑が建てられ、同じく堺市堺区にある妙法寺には忌碑が建てられています。
豊臣秀吉を天下取りへ導いた落語家の始祖は、どのような話術で人を楽しませていたのだろうか?と想像を膨らませながら、偲びたいと思います。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

レッツ!トライ!【曽呂利新左衛門クイズ】コーナー〈難問度:★★★〉
日本の各地に曽呂利新左衛門が○○したものが今もなお残されています。
さて、この○○に入るのは次のうちどれでしょうか?
1、建造
2、調理
3、作庭
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 堺市歴史人物クイズ 】~正解発表~
令和四年(2022)7月8日のブログ[堺市歴史人物クイズ]で出題したクイズの正解を発表します。
Q1、千利休(せんのりきゅう)
Q2、与謝野晶子(よさのあきこ)
Q3、曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)
Q4、津田宗及(つだそうぎゅう)
Q5、呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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ザビエル公園と黄金の日々

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【ザビエル公園と黄金の日々】について~諸説あり
天文十九年(1550)12月、厳しい寒さを耐え抜き、堺を訪問したイエズス会宣教師:フランシスコ・ザビエルは、堺の豪商:日比屋了慶より、手厚いもてなしを受けていました。
日比屋了慶は、堺櫛屋町に構えた当時は珍しい瓦葺き木造3階建ての屋敷を聖堂にあて、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスをはじめとする宣教師の布教活動の拠点として手厚くもてなし、自らも洗礼を受けました。
聖堂にあてた屋敷は「南蛮寺」といわれ、永禄六年(1563)12月には日本で初めてのクリスマスがこの南蛮寺で行われたといわれています。

日比屋了慶の屋敷周辺には、黄金の日々を謳歌し自治都市として栄えていた堺を支えた小西行長や武野紹鴎、今井宗久や千利休の屋敷もありました。
屋敷に茶室を設え、茶人としても著名であった日比屋了慶は、特に千利休と交流を深めました。
また、利休七哲といわれた千利休の七人の高弟の中にキリシタン大名がいたことから、キリスト教が茶道に大きな影響を与えたといわれています。

堺の豪商:日比屋了慶が堺櫛屋町に構え、「南蛮寺」といわれた屋敷は、昭和二四年(1949)にフランシスコ・ザビエルの来航400年を記念した公園が開設され、「ザビエル公園」と命名されました。
日比屋了慶が多くの人を手厚くもてなした屋敷は、約470年という長い年月を経て、現在も多くの人から愛され、春の桜や秋の紅葉が私達を手厚くもてなしてくれています。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。


レッツ!トライ!【ザビエル公園と黄金の日々クイズ】コーナー
ザビエル公園の正式名称は次のうちどれでしょうか?
1、戎公園
2、日比屋公園
3、南蛮寺公園
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 横山やすしクイズ 】~正解発表~
令和三年(2021)4月18日のブログ[横山やすし]で出題したクイズの正解は、、、「1、自衛隊」です。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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地震の教訓を語り継ぐ「擁護璽」

大浜公園に今から166年前の1855年に建てられた「擁護璽」(ヨウゴジ)という大きな石碑があります。

その石碑の裏側には、1854年に東海地震と南海地震が立て続けに起きた時、津波や家、橋の倒壊など多数被害が出ましたが、みんな神社の庭など広いところに避難したので犠牲者が出なかった、というようなことが書かれております。

それは314年前の1707年の東海地震、南海地震のとき(この年に富士山も爆発しています)、家や橋が倒壊して船で逃げようとしたところ津波に飲み込まれて多数の犠牲者が出たという経験が語り継がれていたのでその教訓によって犠牲者が出なかったそうです。

2月13日深夜、東日本大震災の余震と見られる大きな地震がありました。南海地震もいつ起きてもおかしくない状態なので非常時に備えておきたいものです。

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堺会合衆黒幕説から見る本能寺の変

【年始挨拶】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
謹んで新年のお慶びを申し上げます。

本年も皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げますとともに、新型コロナウイルスの一日でも早い終息、また、堺のんびりクルーズの運航再開をお祈り致します。

一人でも多くの方に一つでも多くの事を発信出来ますよう、務めて参りたいと思いますので、本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

今回は【堺会合衆黒幕説から見る本能寺の変】について~諸説あり~

天正十年(1582)6月2日早朝、堺から約60km離れた距離にある本能寺で明智光秀が主君の織田信長に襲撃した事件「本能寺の変」は、約440年の年月を経た今もなお日本史最大の謎とされています。

明智光秀が織田信長を討つ動機を明らかにした史料や手紙は後難を恐れて隠蔽したとされていること、また、明智光秀の重臣も短期間で討たれたとされていることから、動機を示す資料が極めて少ないため推理や憶測という想像を働かせる余地が大きくなるにつれ、数多くの説が誕生しました。
どの説も未だに定説に至らないとされていますが、その中でも「堺会合衆黒幕説」が誕生した背景や本能寺の変前日に開催された「堺茶会」から見えてくる本能寺の変に渦巻く人間模様に目を向けたいと思います。

本能寺の変前日6月1日雨天、本能寺茶会が開催されました。
主賓は島井宗室、参加者は一条内基・近衛前久・近衛信基・九条兼孝・二条昭実ならびに公家及び寺社や商人の代表など約40名にのぼりました。

この茶会開催に伴い、安土城で保管されている名物茶器など約40種が本能寺大茶会で披露され、歓迎された参加者は美しく珍しい名物茶器を目の前に茶を嗜みました。
ただし、この茶会開催に伴う織田信長の目的は大きく二点ありました。

一点目は、当時の「天下三大名器」の三つのうち、二つを所有している織田信長が、あと一つを所有している博多の商人・茶人でこの茶会の主賓である島井宗室へ事前に商売の保護を条件に献上するよう命じ、あと一つの名器「楢柴」を手に入れることでした。

二点目は、明や朝鮮と貿易を営み巨万の富を築いていたこの島井宗室と親密な関係を築くことで、海外からの輸入ルートをもつ島井宗室をはじめとする博多商人と親密な関係を築くことでした。
ところが、織田信長の強さの一つである鉄砲戦術活用の武器となる鉄砲や弾薬は、堺商人から入手していたため、織田信長が博多商人へ目を向けようとしている事実は、堺の豪商や有力者により構成された組織「堺会合衆」に強く大きな衝撃を与えました。

今井宗久・千利休・津田宗及などから構成されていた堺会合衆の中で、鉄砲の輸入販売を軸に置いていた津田宗及が特に大打撃を受けることが予想されていました。
その津田宗及ならびに千利休をはじめとする一流の堺茶人は、本能寺茶会と同日に開催された「堺茶会」で徳川家康の接待をしていました。

この堺茶会の接待を指示したのが織田信長であること、また、本能寺茶会で博多商人である島井宗室に目を向け親密な関係を築こうとしたとされていたことから、本能寺と堺で開催された重要な茶会を同日開催にしたのは意図的とされています。

さらに、この同日開催という情報を津田宗及ならびに千利休をはじめとする堺会合衆は事前に入手し、明智光秀に伝えたのではないかとされています。
特に、織田信長が博多商人へ目を向けることで大打撃を受けることになる津田宗及は、坂本城において年に二回茶会を開催するなど明智光秀と親密な関係を密かに築いていました。

また、本能寺の変直前に津田宗及と豊臣秀吉が密会していた記録が残されていることなどから、本能寺の変からしばらくの間は疑いの目が向けられていた記録があるといわれています。

このことなどから、黒幕は津田宗及が有力ではないかという説が浮上しました。
また、他説の一つとして織田信長に本能寺茶会を進言した千利休が黒幕という説も浮上しています。
侘び茶を大成させた千利休は、堺出身でした。
強引な方法で出身地である堺を支配しようとしたり、名物狩りをしたりする織田信長を忌み嫌う堺商人の姿を常日頃から目の当たりにし、ヒートアップしていく姿勢や態度に千利休は我慢の限界を感じていました。

そして、織田信長が是が非でも手に入れたいとされていた本能寺茶会の開催に伴う織田信長の目的の一つで冒頭に登場した天下三大名器の一つ「楢柴」で織田信長を引き寄せ、本能寺茶会開催を進言したとされています。
そして、千利休は連歌師である里村紹巴を通じ、明智光秀に暗殺の企てを伝えたといわれています。
このことなどから、黒幕は千利休が有力ではないかという説が浮上しました。

こうして、津田宗及や千利休をはじめとする堺会合衆が黒幕ではないかとされる数多くの説が誕生していますが、今となれば知る術もありません。
「敵は本能寺にあり」と、言う者・言われる者・言わす者、真実はいかに。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

レッツ!トライ!【堺会合衆黒幕説から見る本能寺の変クイズ】コーナー
徳川家康の伊賀越えを支援した堺の薬問屋主人である油屋常琢は、三好義賢の寄進で堺に建立された「○○寺」を大規模に改築、また、本能寺の変前日に開催された堺茶会の接待を受け終えた徳川家康が宿泊したともいわれていわれいる○○に入る寺は、次のうちどれでしょうか?
1、妙国寺
2、南宗寺
3、大安寺
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【今井宗久クイズ】~正解発表~
令和二年(2020)11月22日のブログ[今井宗久]で出題したクイズの正解は、、、「1、黄梅庵 」です。
黄梅庵は、奈良県橿原市今井町の豊田家にありました。
そして、豊田家で今井宗久ゆかりの茶室として代々引き継がれてきましたが、明治から昭和にかけての茶道四天王の一人とされた実業家の松永安左ヱ門翁が譲り受け、堺市に寄贈されました。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,観光案内,運航日記 — kc-sakai 11:14 AM  Comments (0)

世界文化遺産~百舌鳥古市古墳群~仁徳天皇陵古墳~民のかまど

【自己紹介】
皆様、はじめまして。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永と申します。

ガイドでは水上でしか味わえない爽やかな風と共に四季折々の景色と名所のコラボレーションをお楽しみ頂きながら地上とはひと味もふた味も違う特別な堺の魅力を、ブログでは堺の歴史・文化・観光地・伝統産業品・グルメ・イベントを、一人でも多くの方に一つでも多くの事を発信して参りたいと思いますので何卒宜しくお願い申し上げます。

初回は【世界文化遺産~百舌鳥古市古墳群~仁徳天皇陵古墳~民のかまど】について~ 諸説あり ~

令和元年(2019)7月6日、令和初!大阪初!百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産に登録されました。
登録は、堺市の百舌鳥エリア23基及び羽曳野市・藤井寺市の古市エリア26基の計49基が対象となりました。
その49基のうち、堺市の百舌鳥エリアにある仁徳天皇陵古墳は、日本最大の前方後円墳、エジプトのクフ王のピラミッド・中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界三大墳墓の一つなのです。
およそ5世紀頃から1日約2,000人延べ約680万人の作業員数で約15年の年月をかけ、現在の価格で約800億円の総工費で築造されたといわれてます。
実際の被葬者は明らかではありませんが、宮内庁により百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)として、第16代仁徳天皇[皇居・宮殿は大阪市にある難波高津宮(なにわのたかつのみや)]の陵墓に治定されてます。
その仁徳天皇の逸話の一つ「民のかまど」は、ご即位後に高台より国を見渡されたところ、民家より煙が出ていないことで民衆が炊事ができないほど貧しいとお気付きになられ、3年間の税を免除されました。
税を免除されたことにより朝廷の収入はありませんので、衣服は新調されず食料も自給自足、また、茅葦屋根が破れ雨漏り、、、という状態から3年後、再び高台より国を見渡されたところ、民家より煙が出ていて、仁徳天皇は皇后に「高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどは賑わいにけり、私は豊かになり、喜ばしいこと、国とは民が根本であり、その民が豊かであれば私も豊かということ」とお話しされました。
仁徳天皇は、更に3年間の税を免除され、6年後は沢山の民家より煙が出ていて民衆は豊かに暮らしたといわれてます。
この「民のかまど」という逸話と共に仁徳天皇陵古墳をはじめとする百舌鳥古市古墳群が後世に受け継がれるよう、堺のんびりクルーズのガイドとして語り継いで参りたいと思います。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,観光案内,運航日記 — kc-sakai 11:57 AM  Comments (0)

堺の環濠3

豊臣秀吉はあまり裕福でない半農半士の家に生まれました。
右手の親指が生まれつき2本あって、当時、世間体を気にする家柄であれば出生してすぐ手術したそうです。

しかし裕福でない家だったせいか放ったらかしだったんでしょうね^_^

天下人として出世する中、手のことは周りも遠慮があったのか、記録にはあまり残ってませんが、

織田信長の秀吉への呼び名「六つめ」だったり
あまり秀吉のことを好きでなかったルイスフロイスの母国宛の手紙、
旧友の前田利家の書簡などには記載されています。

秀吉は再婚した母親の新しい父親とソリが合わず家を飛び出し、縫針の行商をしながら放浪へ。
このとき2000名規模の傭兵軍団の頭領「蜂須賀小六」と出会っています。
秀吉が人たらしで商才に優れていた人物であったのは間違いないでしょう。
織田信長が本能寺で斃れたあと、豊臣秀吉がその実権を握り天下を統一しますが、

晩年は秀頼を授かって以降、政策の評判はよくありませんでした。

有名な秀吉の辞世の句

「露となり、露と消えにし
我が身かな
浪速のことは夢のまた夢」
があります。

露のように生まれ、露のように消える自分。
大阪での栄華は夢を見てるようであったなぁ、、

どんなに波乱万丈、大出世しようとも人生って儚いものなんですかね( ̄ー ̄)

豊臣秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった徳川家康が江戸幕府を開きました。

幕府は全国のインフラなど街道の整備を進めていきます。世の中が落ち着いてきたところで

最後は莫大な財産をもつ「豊臣家」の解体に着手します。そんな中で幕府と
一戦を交える空気は高まり1614年11月、太閤秀吉の恩義を受けた大名、幕府の政策に不満をもつ者、浪人など

いろんな思惑で反幕勢力などが大坂城に集まり戦争準備をします。
そして12月戦闘が始まります。のちに冬の陣と呼ばれる戦いです。

真田幸村らの大活躍で優勢だった豊臣方ですがそのあとの協議で幕府側と和睦をむすび

大阪城の外堀を埋める約束がそのまま内堀も埋められ、門や櫓も破壊されてしまいます。
そして1615年4月、夏の陣に突入していきます。
この月に豊臣方大野道犬が徳川方の武器支援、兵站の役を果たしていた堺の町に火を放ちます。

堺の町は2万軒の寺社、家屋が焼けてしまいます。
怒涛の進撃で真田幸村、後藤又兵衛などの活躍で徳川家康を切腹の覚悟を2回させるくらいまで追い詰めますが

5月、主力の真田幸村など戦死、大坂城は落城して応仁の乱から150年続いた戦国時代に終止符がうたれました。

堺に火を放った大野道犬は6月、堺の王子が飢(現在の大阪刑務所あたり)で火あぶりの処刑になります。
お墓は刑場から明治に入って堺の月蔵寺に移されています。

月蔵寺の立派な土塀は、大阪夏の陣で焼かれた家屋の瓦が塗り込められています。

戦が終わって堺には長崎の奉行が堺に異動してきました。そして町の復興責任者である

風間六右衛門が着任します。

~この続きはまた今度~

↓月蔵寺の門と土塀


Filed under: 堺のお話,観光案内,運航日記 — kc-sakai 7:05 PM  Comments (0)

堺の環濠2

応永の乱は1399年(応永6年)10月13日、堺にて挙兵した大内義弘氏が
同11月21日幕府側の総攻撃により討ち死に、戦は収まりました。

大内義弘氏は減っていく手勢のなか、奮闘しますが最後の側近が討ち死にするとひとり敵陣のなかで

「天下無双の名将大内義弘入道、討取って将軍のお目にするがよい」

の大声を最後に討取られたとあります。

謀反のため大内氏は6つあった国のうち4つを没収されて弱体化しますが、
その後また盛り返して「西国一の戦国大名」と言われるまでに復活します。
大内家が滅んだのは応永の乱から200年ほどあとの1557年です。

さて防衛のため築いた「堺城」とその町並みは戦火に焼かれ、堺のまちは環濠を残し
焦土と化しました。
今でも2メートルほど掘るとその焦土層が出てくる場所があるそうです。

戦争により灰になった堺ですがもともと「遣隋船」「遣唐船」の進発港としての海上ルートと
新たに中国を模範にした律令制に基づいた律令国の「摂津国」「河内国」「和泉国」のさかい目という
「日本経済の要衝」という立地で復活はダメージの割に早かったと思われます。
灰になった堺が回復する大きなきっかけは応永の乱から5年ほどして誕生した「遣明船」です。

やはり住吉の浜から進発しました。

西暦600年ころから始まった遣隋使、遣唐使は、船のコンパスというものが無かったため、
出航したら中国大陸の方角に向い「だいたいこっちやろ?」で航海していました。。
船体の建造技術や天気予報の技術も今ほど進んではないので船で大陸まで行くのはかなり命がけです。
しかも船は「だいたい」の場所に着くわけで、大陸に到着してから目的地を探すという第二の難関がありました。
それに中国の皇帝や目的の人物に会えるまでもひと苦労です。
なんせ船で雨風にさらされて揺られて、挙句に目的地を探しながら徒歩の長旅でヨレヨレなった

見知らぬ一行に「皇帝に会いたいのですが~」と言われてもねー。

遣隋使、遣唐使のおもな目的は中国の政治手法や文化、文明、技術、宗教などを学んで日本に持ち帰ることが
目的でしたが遣明船のころはすこし進化しています。

それは
・原始的だが船のコンパスがあった(目的地到着の精度があがった)
・輸入もさることながら刀や鉱物などの輸出を行った。
遣明船が始まってしばらくたった1480年ころには堺の豪商からなる「会合衆」が中心となって

一部自治制を確立しました。

「自分たちのことは自分たちで」という気概は、応永の乱で丸焼けになったつらい経験と
その教訓を背景に高度な自治制、政治性をもって町の防衛体制を築きました。
実際、いくつもの環濠の橋には商人たちでお金を出し合って侍を雇い、見張りをさせていたそうです。
現代風にいうなら「セキュリティ抜群」の町です。

1481年に世間で噂話になったのが
「堺の福の女神が上洛して、京の男の貧乏神が堺に下向した」です^_^

堺の富豪の娘が持参金付きで京の貧乏公家に嫁ぎ、貧乏だが家柄が良い公家の息子が堺の富豪に養子にきた
というわけです。
実際は双方20名ほどの行き来きだったようですが当時の繁栄がよくわかるエピソードです。

1500年半ばぐらいからポルトガル人が日本に来るようになって、福岡、長崎、平戸が開港すると
そこにもいち早く堺商人は商業活動を行います。
また鉄砲は輸入だけにとどまらず豪商の今井宗久氏を中心に堺ブランドの鉄砲を製造する生産ラインを整えました。
そしてまもなく織田信長は堺の町を直轄地にします。

堺の商人たちは東南アジアなどに海外渡航も活発におこない堺の町は自治都市、国際都市として繁栄をきわめます。

しかし織田信長が本能寺で斃れ豊臣秀吉に時代が変わってしまいます。

まもなく天下統一を果たした秀吉は堺に対して厳しい統制政策をとり、環壕は埋められ堺商人の多くを大阪城近辺に移します。

いまの堺筋です。

そうして堺は自由都市としての機能が低下、弱体します。

ところが秀吉の亡き後3年後、1600年(慶長5年)徳川家康を中心とする東軍、豊臣方石田三成率いる西軍が関ヶ原で激突します。

そして徳川家康の東軍が勝ち征夷大将軍となって幕府を開きます。
そのときに堺は幕府の直轄領になりました。

この続きはまた今度( ̄▽ ̄)

↓灯台の窓より(横向きですみませんね)

Filed under: 堺のお話,観光案内,運航日記 — kc-sakai 12:54 AM  Comments (0)
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