今井宗久

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【今井宗久】について~諸説あり~

今井宗久
商人・茶人
永正十七年~文禄二年(1520~1593)

今井宗久は、大和国高市郡今井村に生まれました。
祖は、近江源氏佐々木氏で近江国高島郡今井市城を領したことから今井と称したといわれています。
立身出世を志し、南蛮貿易で活気溢れる堺へ出て納屋宗次宅に身を寄せ、商人として修業を重ね、教養を身に付けるため、武野紹鴎より茶の湯を学び、娘婿となり、家財茶器などを譲り受けました。
武野紹鷗の死後は、子の武野宗瓦がまだ5歳であるため、今井宗久が後見人となり、武野家の財産管理を任されますが、後の武野宗瓦との遺産争いで奉行を織田信長の支配下にある者により行われたため、今井宗久に有利な証言が揃い、全面勝訴しました。
やがて、納屋宗次から独立し薬種業を始め、鉄よりも皮が主流であった甲冑製造などに用いる鹿皮などの皮製品の販売、また、 鉄砲の時代を予測し、火薬の原料を独占的に買い占め、河内鋳物師を集めて日本最大の鉄砲の生産地として堺を作り変え、鉄砲の生産に乗り出し、高性能の火縄銃を生産して戦国武将の注目を集め、茶会を通じて武将や堺の豪商たちとの人脈を広め、会合衆の仲間入りを果たします。
ところが、織田信長は各地の勢力に将軍への忠誠を示すため大義名分をつけ、石山本願寺へは5千貫、興福寺へは1千貫、堺へは2万貫(現在の価格にして約20~30億円)を課したことで堺と織田信長は一触即発の事態となりますが、会合衆と織田信長との仲介を行い、堺を戦火から救い、この功績より堺五箇庄の代官に任命され、摂津住吉郡に2千2百石の采地をうけました。
また、津田宗及をはじめとする反織田信長は泣く泣く軍門に下ることになり、やれ追加の資金援助、やれ労働力の提出要求など言いなり状態となり、約数十年間継続されていた堺の自治組織は緩やかに解体されることになりました。
会合衆と織田信長の仲介をしたことから、塩魚や干物を扱う商人組合の権利をはじめとする淀川通行船の関税免除や生野銀山開発などあらゆる特権を得ます。
しかしながら、長谷川宗仁とともに生野銀山などの但馬銀山の支配を任せられた後に生野銀山は反織田信長に寝返る太田垣氏に一度奪い返される事件が起き、豊臣秀吉の但馬出兵により生野銀山は織田信長の手中に収まりますが、豊臣秀吉が生野銀山を直轄領としたことにより、今井宗久の生野銀山への影響力が弱まりました。
影響力が弱まることは資金源の主力を奪われることになりましたが、鉄砲や火薬製造にも携わり総合軍事産業の事業家として巨万の富を築き、堺での立場を確立し、織田信長の天下統一を側面から支えました。
そのうえ、今井宗久が千利休を推薦し、千利休や津田宗及とともに織田信長の茶頭を務め、「天下三宗匠」と称されました。
まもなく、徳川家康にも側近し、本能寺の変の前日は徳川家康に茶を点てていたといわれています。
織田信長の死後は、豊臣秀吉に仕え、堺の万代屋宗安や住吉屋宗無とともに御咄衆を務めますが、本願寺との密接な関係や茶の湯に思い入れが無いとされ、豊臣秀吉は今井宗久よりも新興の薬種商である小西隆佐や千利休を重用したため、北野大茶会で茶頭を努めたのを最後に織田信長時代に浴したほどの活躍や地位がみられなくなり、静かに主役の座を降りました。
そして、日本で最初の武器商人であり当代随一の茶人は、73年の生涯に幕を閉じました。
今井宗久の生涯を伝えるものは極めて少ないとされていますが、堺市中之町東に「今井宗久屋敷跡」と刻まれた石碑や菩提寺である臨江寺の墓碑が残され、足跡を辿ることができます。
生涯の大半を堺で過ごした今井宗久の足跡を辿り、偲びたいと思います。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

☆レッツ!トライ!【今井宗久クイズ】コーナー☆
今井宗久にゆかりがある茶室といわれ、堺市博物館内にある登録有形文化財に指定された茶室は次のうちどれでしょうか?
1、黄梅庵
2、黄金の茶室
3、待庵
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【堺三大まつりクイズ】~正解発表~
令和二年(2020)11月6日のブログ[堺三大まつり]で出題したクイズの正解は、、、「1、大仙公園」です。
日本の都市公園100選・大阪みどりの100選・日本の歴史公園100選に選ばれ、園内には約400本の様々な種類の桜が植えられており、花見を楽しむ老若男女で賑わいます。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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堺三大まつり

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉
松永です。

今回は【堺三大まつり】について~諸説あり~

「堺三大まつり」は、
堺まつり・堺市民オリンピック・堺市農業祭の3つです。
本年は、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から中止となりました。
沢山の笑顔や希望に溢れる堺三大まつりの中止は大変残念ですが、今回は昨年までに開催された堺三大まつりを振り返りたいと思います。

1つ目「堺まつり」

昭和49年(1974)より毎年10月の第3日曜日とその前日の土曜日に開催される堺市内最大のイベントです。
南蛮船フロートや世界民族衣装行列などを総勢約7千人が趣向をこらした演出で参加する〈大パレード〉、
堺出身の千利休が大成した茶の湯文化を堺の誇りとして継承や発展を目的に開催する〈利休のふるさと堺大茶会〉、
堺の特産品などを販売する〈なんばん市〉、ステージイベントや勇壮な布団太鼓が堪能できる〈前夜祭〉をはじめ、
堺商人まつり・さかい利晶の杜オータムフェスタ・山之口商店街イベントなどの盛り沢山の内容で、来場者は毎年約40万人を超えます。
昨年は百舌鳥古市古墳群の世界文化遺産登録決定により、堺7区を表現した7色のオリジナルTシャツに身を包んだ「世界遺産登録御祝隊」による統一した演出で盛大に盛り上がり、いつもとはひと味もふた味もちがう堺まつりになりました。
来年も沢山の素敵な笑顔に包まれた堺まつりになりますように。

2つ目「堺市民オリンピック」

昭和50年(1975)より毎年体育の日である10月の第2月曜日(祝日)に開催される堺市内最大の生涯スポーツの祭典です。
開会式典では、ブラスバンド演奏に合わせて選手が入場行進を行い、大会宣言・聖火入場・選手宣誓などの一大イベントを更に大きく盛り上げます。
7種目の競技(ソフトボール・バレーボール・卓球・陸上競技・ゲートボール・綱引・グラウンドゴルフ)に各小学校区からの代表選手が参加し、緊迫した空気に包まれた会場に流れる沢山の汗と涙が其々のスポーツに対する熱い想いを物語ります。
スポーツは「努力は嘘をつかない」ということを胸に抱いて、私も堺市民オリンピックに選手として参加した経験は、自分の中で大きな自信に繋がり、大変素晴らしい経験をしました。
来年も益々熱く盛り上がり沢山の夢と
希望に溢れる堺市民オリンピックになりますように。

3つ目「堺市農業祭」

昭和51年(1976)より毎年11月23日(祝日)に開催される堺市の農業を振興することを目的とされたイベントです。
堺市内でとれた新鮮な野菜や果物は絶大な人気を誇り即売する「とれとれ市」をはじめ、農畜産物品評会や素晴らしい花市・贅沢な堺の特産市・見応えがあるステージ演技などで、嬉しいと楽しいが全て盛り込まれた内容は堺市内外問わず愛されています。
生産者の方と来場者の方が実りの秋を迎えられる喜びを分かち合い、農業への理解と認識をより一層高めることができ、生産者の方への感謝はもちろん、改めて命を戴くことへの感謝を深めることができます。
来年も感謝を抱きながら素晴らしき実りの秋を感じられる農業祭になりますように。

堺三大まつりは、沢山の素敵な笑顔に包まれながら熱く盛り上がり、愛され続けています。
来年は無事に開催されることを祈りたいと思います。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

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レッツ!トライ!堺三大まつりクイズ】コーナー

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与謝野晶子

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【与謝野晶子】について~諸説あり~

与謝野晶子
歌人・作家・思想家
明治十一年~昭和十七年(1878~1942)

与謝野晶子は、明治十一年(1878)に堺の老舗和菓子屋に生まれました。
戸籍名は与謝野志やう(よさのしょう)、旧姓は鳳「ほう」、ペンネームの「晶子」の「晶」は本名の「しょう」から取られたといわれてます。
四つ角に面した自宅兼店舗の屋根の大時計に加えて2階の窓を西洋風の両開きにした老舗和菓子屋「駿河屋」を営む父・鳳宗七と母・津祢の三女として生まれました。
3人目の女の子であることから疎まれて育てられましたが、漢学塾へ入り、琴や三味線を習い、堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学し、源氏物語や小説を読み、古典も親しみました。
学校から帰宅すると、羊羹が有名な自宅兼店舗の和菓子屋で計算や包装を捌きながら上手に接客する傍ら商品の管理や帳簿付けを担当し、毎年正月に販売する勅題にちなむ和菓子の創案や羊羹場と呼ばれる製造現場で和菓子を作り、羊羹を切り、懸命に手伝いをする晶子を両親は頼りにしていたといわれてます。
手伝いを終えた晶子の楽しみは、父の蔵書を端から端まで読む読書の時間でした。
浪華青年文学会に参加後の明治33年(1900)に浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と出会い、鉄幹が創立した新詩社の機関誌「明星」に短歌を発表しました。
そして、家出同然で東京に移り、処女歌集である鉄幹へのあふれる愛と青春のみずみずしさを歌いあげた浪漫主義の代表作「みだれ髪」を刊行し、歌人としてのスタイルを確立させ、鉄幹と結婚し、12人の子宝に恵まれました。
大正10年(1921)に建築家の西村伊作・画家の石井柏亭・鉄幹と共にお茶の水駿河台に文化学院を創設し、男女平等教育を唱え、コテージは英国の建物にし、日本で最初の男女共学を成立させました。
ところが、鉄幹の詩の売れ行きは悪く、大学教授の職に就くまで家計が成り立たず、晶子は仕事の依頼を全て引き受けなければなりませんでした。
忙しい日々に追われながら、こし餡を炊いておはぎを作り、こし餡の汁粉でお汁粉を作り、よく近所に配り、風習や年間行事は家族で過ごし、晶子の作る和菓子を家族で囲む時間を大切にしていました。
仕事や家庭を両立させ、晶子が残した歌は5万首にも及び 、即興短歌会開催・源氏物語の現代語訳・詩作・評論活動など執筆活動を展開する一方、女性の自由と自立を求め、権利に焦点をあてた評論も多く著し、地位向上に積極的に取り組み、故郷である堺を懐かしむ数々の短歌を詠みました。
晶子の故郷に対するイメージは2つ、1つ目は海のイメージ、2つ目は駿河屋で家族・親戚・店で働く方と過ごす明るく楽しい賑わいや活気でした。
2つのイメージから詠まれた故郷の短歌は、美しく切ないほど哀愁を帯びるも、故郷への愛が垣間見えます。
情熱の歌人は、 力強くエネルギッシュな生涯を明治・大正・昭和を短歌と共に生き、巨大な足跡を残しました。
現在でも絶大な人気を誇る晶子は、堺の各地に歌碑や南海本線堺駅西口に銅像も建てられ、晶子の足跡を辿ることが出来ます。
足跡を辿ることで、更なる晶子の世界を学びながら偲びたいと思います。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

レッツ!トライ!【与謝野晶子クイズ】コーナー
「駿河屋」が発祥といわれている和菓子は次のうちどれでしょうか?
1、煉羊羹
2、おはぎ
3、お汁粉
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【堺打刃物クイズ】~正解発表~
令和二年(2020)9月11日のブログ[堺打刃物]で出題したクイズの正解は、、、「1、与謝野晶子」です。
与謝野晶子の歌に七町の歌があることは、七町が有名であるという証の一つとなりました。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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堺打刃物

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【堺打刃物】について~諸説あり~

堺の鍛鉄技術は、およそ5世紀頃から1日約2,000人延べ約680万人の作業員数で約15年の年月をかけ仁徳天皇陵古墳が築造された時期に伝わりました。
築造の際に使用する道具として、鍬(くわ)・鋤(すき)などを作るために全国から鍛冶屋を呼び集め、その子孫が堺に残り、受け継いだのが鍛冶屋の街の始まりといわれてます。
平安時代の頃から刀製造として引き継がれ、室町時代の頃には南蛮貿易を通じて堺から国内に輸入された煙草の葉を刻む煙草包丁が安土桃山時代の頃から堺周辺で生産されるようになりました。
当初、煙草は薬として売られていたそうですが、人気になるにつれ、煙草を切る包丁の需要が高まりました。
そして、堺は鉄砲の産地として織田信長をはじめとする権力者にも注目されるほど鉄工の技術力が高く、煙管用に煙草を細く刻む切れ味の鋭い刃物の技術は注目され、切れ味の良い堺の包丁がよく売れました。
ところが、江戸時代の頃には切れ味の悪い刃物が出回るようになり、宝暦8年(1758)に堺奉行の池田筑後守正倫(いけだちくごのかみまさのり)が堺製の煙草包丁を全て買い上げ、包丁職人を七町に集め、七町で製造された包丁のみ「堺匠」として正式に認可しました。
その七町とは、北旅籠町・桜之町・綾之町・錦之町・柳之町・九間町・神明町、この七町以外の場所で製造すると罰則を科されました。
こうしたことから、石も割れるほどの切れ味となり、徳川幕府が品質の良さを認め、他の産地の包丁と区別をするため「堺極」の刻印を附して専売し、切れ味の良さが全国に広く知れ渡るようになりました。
元禄時代の頃には出刃包丁をはじめとする現在の包丁の種類をほぼ堺の鍛冶職人が開発したといわれてます。
その堺打刃物の製造工程は、鍛冶・研ぎ・柄付けの3工程、三者の職人が専門の技術で生産する分業制です。
分業制であるがゆえの輝く美しさや鮮やかで鋭い切れ味が高く評価され、プロの料理人の方や職人の方が使う包丁の約90%のシェアを誇ります。
切れ味の良い包丁で材料を切ることにより、細胞が潰れないため、香りや舌触りが良くなり、まさに道具一つで一段と料理が美味しくなりますので、家庭で利用する和包丁も評価を高め、料亭やレストランで利用されている本格料理用包丁も需要を高め、絶大な信頼と支持を得ながら堺から世界へと多くの人々を魅了し、現在でも匠の技が受け継がれてます。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

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レッツ!トライ!
【堺打刃物クイズ】コーナー
「住之江や 堺の街の 七まちの 鍛冶の音聞く 菜の花の路」という七町の歌を詠んだ堺出身の歌人・作家・思想家は次のうちだれでしょうか?
1、与謝野晶子
2、紫式部
3、清少納言
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
【千利休クイズ】~正解発表~
令和二年(2020)8月25日のブログ[千利休]で出題したクイズの正解は、、、「1、西瓜」です。
飛喜百翁(ひきひゃくおう)が千利休を招いた際に砂糖をかけた西瓜を出しましたが、千利休は砂糖がかけられていない部分を食べ終え「砂糖をかけるなど言語道断であり、西瓜の美味しさを引き立たせるには塩をかけたほうがよい」と提唱したのが始まりといわれてます。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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千利休

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【千利休】について~諸説あり~

千利休
茶人・商人
大永二年~天正十九年(1522~1591)

千利休は、大永二年(1522)に堺の魚屋に生まれました。
幼名は田中与四郎 、法名は宗易、利休という名は茶の湯を極めた称号として天皇から居士号を与えられ、「鋭利を休めよ」という意味であるといわれてます。
塩魚を扱う商人ないし、その商人たちに倉庫を貸す「問」といわれている家業の跡取りとして品位や教養を身に付けるため茶の湯を習い始めました。
師となる堺の茶匠・医師・豪商の北向道陳は、空海より東山流の茶法を学び、武野紹鴎に千利休を推薦して弟子とさせました。
そして、後の師となる大和国吉野郡出身で堺の茶人・豪商の武野紹鴎は、茶道勃興期の指導者として千利休・今井宗久・津田宗及の茶の湯の天下三宗匠をはじめとする多くの門人に大きな影響を与えました。
師から学んだ「不足の美」の思想に感銘を受け、「不完全だからこそ美しい」という教えを更に進め、侘びの対象を茶道具だけでなく茶室の構造及び点前の作法など茶会全体の様式にまで拡大し、茶道具を創作し、掛物には禅の枯淡閑寂の精神を反映させた水墨画を選び、「これ以上何も削れない」という極限まで無駄を削り、緊張感を生み出し、織田信長や豊臣秀吉に感化された武将が次々と千利休に弟子入りし、後に利休七哲という優れた高弟が生まれ、侘び茶を大成させました。
その高弟の一人に「茶の湯の神髄とは何ですか」と問われ、千利休は「茶は服の良き様に点て、炭は湯の沸く様に置き、冬は暖かに夏は涼しく、花は野の花の様に生け、刻限は早め、降らずとも雨の用意し、相客に心せよ」と答え、当たり前のことこそが最も難しいということを伝えました。
その千利休の逸話の一つ「一輪の朝顔」は、千利休の屋敷の庭に当時は珍しい朝顔が見事に咲き誇りましたので、「朝顔の茶会」へ豊臣秀吉を招きました。
豊臣秀吉は、見事に咲き誇る朝顔の庭を眺めた茶会に期待しましたが、庭に着くと庭の朝顔が全て切り取られていて、不審に思いながら茶室に入ると床の間に一輪だけ朝顔が生けてあり、一輪であるがゆえに際立てられた朝顔の美しさに豊臣秀吉は感動し、千利休の美学に脱帽したといわれてます。
千利休は茶人として名声や権威を誇ると同時に政事にも大きく関わりますが、豊臣秀吉は貿易の利益を独占するため繁栄した堺に対し税を重くしたり、独立の象徴である壕を埋めたり、堺の権益を守ろうとしている千利休を豊臣秀吉は煩わしく感じ始め、やがて関係に不和が生じ、千利休は豊臣秀吉の逆鱗に触れてしまいます。
そして、、、その日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた千利休のもとを訪れた豊臣秀吉の使者は「切腹せよ」という伝言を伝え、千利休は「茶室にて茶の支度が出来ております」と静かに口を開き、その使者に最後の茶を点て、利休は一呼吸ついて切腹し、壮絶な最期を遂げました。
千利休の切腹から約430年の年月が経過した堺には、供養塔がある「南宗寺」及び椿の井戸がある「千利休屋敷跡」など千利休の足跡を物語る場が数多くあり、気軽に体験できる茶の湯体験施設には現在でも受け継がれている茶の湯文化に華を添えた堺の和菓子と共に味わうこともでき、千利休という偉人を身近に感じられることを改めて誇りに思います。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

レッツ!トライ!【千利休クイズ】コーナー
千利休が日本で初めて塩をかけて食べたのが始まりといわれている食べ物は次のうちどれでしょうか?
1、西瓜
2、柑子
3、胡桃
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,日記,観光案内 — kc-sakai 10:53 PM  Comments (0)

世界文化遺産~百舌鳥古市古墳群~仁徳天皇陵古墳~民のかまど

【自己紹介】
皆様、はじめまして。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永と申します。

ガイドでは水上でしか味わえない爽やかな風と共に四季折々の景色と名所のコラボレーションをお楽しみ頂きながら地上とはひと味もふた味も違う特別な堺の魅力を、ブログでは堺の歴史・文化・観光地・伝統産業品・グルメ・イベントを、一人でも多くの方に一つでも多くの事を発信して参りたいと思いますので何卒宜しくお願い申し上げます。

初回は【世界文化遺産~百舌鳥古市古墳群~仁徳天皇陵古墳~民のかまど】について~ 諸説あり ~

令和元年(2019)7月6日、令和初!大阪初!百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産に登録されました。
登録は、堺市の百舌鳥エリア23基及び羽曳野市・藤井寺市の古市エリア26基の計49基が対象となりました。
その49基のうち、堺市の百舌鳥エリアにある仁徳天皇陵古墳は、日本最大の前方後円墳、エジプトのクフ王のピラミッド・中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界三大墳墓の一つなのです。
およそ5世紀頃から1日約2,000人延べ約680万人の作業員数で約15年の年月をかけ、現在の価格で約800億円の総工費で築造されたといわれてます。
実際の被葬者は明らかではありませんが、宮内庁により百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)として、第16代仁徳天皇[皇居・宮殿は大阪市にある難波高津宮(なにわのたかつのみや)]の陵墓に治定されてます。
その仁徳天皇の逸話の一つ「民のかまど」は、ご即位後に高台より国を見渡されたところ、民家より煙が出ていないことで民衆が炊事ができないほど貧しいとお気付きになられ、3年間の税を免除されました。
税を免除されたことにより朝廷の収入はありませんので、衣服は新調されず食料も自給自足、また、茅葦屋根が破れ雨漏り、、、という状態から3年後、再び高台より国を見渡されたところ、民家より煙が出ていて、仁徳天皇は皇后に「高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどは賑わいにけり、私は豊かになり、喜ばしいこと、国とは民が根本であり、その民が豊かであれば私も豊かということ」とお話しされました。
仁徳天皇は、更に3年間の税を免除され、6年後は沢山の民家より煙が出ていて民衆は豊かに暮らしたといわれてます。
この「民のかまど」という逸話と共に仁徳天皇陵古墳をはじめとする百舌鳥古市古墳群が後世に受け継がれるよう、堺のんびりクルーズのガイドとして語り継いで参りたいと思います。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,観光案内,運航日記 — kc-sakai 11:57 AM  Comments (0)

堺の環濠6(最終回)

1945年8月、日本の無条件降伏により戦争は終結、日本はすっかり灰になってしまいました。

戦後復興を進めながら、日本政府は所得倍増計画を含む「高度経済成長政策」を掲げます。

地方の若者を企業がまとめて雇用する「集団就職」と戦争中に進化した「官民一体の技術力」で

飛躍的な経済発展に繋げるというものでした。

堺では1953年(昭和33年)堺臨海工業地帯の埋め立てが始まりました。

かつて阪堺電車の車窓から見えたネギやミツバの田園と風車の景色は姿を消しました。
万葉集にも詠まれた堺から高石にかけた白砂青松の海岸も埋め立てられてしまいました。

あまりの急な変わりように
「子どもの溺死が減って交通事故死が増えた」という言葉があったそうです。

かわりに大手の石油会社、製鉄会社、電力会社の施設が出現しました。

当時の堺臨海工業地帯の石油消費量は大阪府全体の消費量の半分を超えていました。

当然、深刻な公害の問題が起きます。

埋め立ての拡張によりたくさんの漁業従事者が廃業や移転に追い込まれました。

大阪湾は瀬戸内海、紀伊水道と繋がる大きな湾です。

波、風も比較的穏やかで淀川、大和川、石津川から流れこむ栄養豊富な海水によって

美味しい魚介類が育ちます。

イワシが有名で四国、九州のほうからきた群れが紀伊水道を通って

大阪湾の豊富な栄養でまるまると育ちます。

しかし工場排水、生活排水で大阪湾の汚染が進み、タコやカキからは

基準を超えるカドミウムが検出されます。
カドミウムは「イタイイタイ病」を引き起こし、腎臓に

深刻なダメージを与える物質です。

たちまち大阪湾の魚介類は食べれないというイメージが拡がります。

また大和川の水質汚染はとくに酷く、メタンガス、硫化水素、アンモニアガスの

含有量が国の基準の5〜90倍(時期によります)。
そのままでは水道原水として利用できるレベルでは無くなりました。

「日本一汚い一級河川」というワードは私が小学生の時に聞きました

(ちなみに1965年生まれです)。

また煙突からは猛毒の物質が大量に吐き出され、
1970年の調査では慢性気管支炎の患者数が堺、大阪、四日市、川崎、尼崎のなかでは

1番多い14人に1人という恐ろしい数字が残っています。
畑のほうれん草が一夜にして枯れた事例もありました。

また戦後復興の資材確保と、好景気による地価高騰で宅地開発のため

古墳や須恵器などの遺跡を壊し始めました。

「仁徳天皇陵」など宮内庁が管理している古墳は無事ですが、

かつて100基以上あったとされる百舌鳥古墳群の古墳は現在44基にまで減っています。

いまや「世界遺産」の文化財が、たった6〜70年ほど前には国土開発によって

あっさり取り壊されていたという考えられない事実です。

また「大阪万博」で阪神高速堺線を延伸工事の際に、堺の東側南北の環壕を

用地買収の手間が省けるという理由で埋められてしまいます。

1963年(昭和38年)自然や文化財などを喪失した大きな犠牲のかわりに日本は国内総生産世界2位になりました。
敗戦から23年後のことです。
生活も便利になり自動車、冷蔵庫、テレビ、洗濯機が普及し、女性の社会進出もすすみました。

堺の環壕もすっかりゴミ箱のような姿になりました。

環壕の側にある学校は窓を開けて授業できないぐらい臭いが酷く、神辺橋のすぐそばの

「月洲中学校」は昭和53年にはすでにエアコンが装備されていました。

この中学校出身者である
高杉と植木が自前のカヌーで清掃活動を始めたのが現在の

観濠クルーズsakaiのルーツです。

行政も
「人が集える川に戻そう」
という目標を立てて川を綺麗にする工事が始まります。

復旧工事は20年という長い時間がかかりました。

現在〜
岸壁にはフジツボ、ムール貝、岩ガキ、イソギンチャク、

カニ、フナムシなどが賑やかに住んでいます。
魚はチヌ、スズキ、ハゼ、サヨリ、ボラ、コトヒキなど^_^
また世界遺産「仁徳天皇陵」の濠の「カメ」も流入しています。

ウミガメではありません^_^
それらを狙ってサギ、カルガモ、鵜などがいます。

堺の海、環壕、大和川も汚染が酷かった自分の少年時代に比べてそれは

それは見違えるくらい美しくなりました。
しかし今でも同年代から年上の人達の中には、汚染が酷かった頃の「景色」と「臭い」が

脳にこびりついているため、大阪湾の魚介類に対する「不安」を持つ方は多いと思います。

2019年11月、土居川の住吉橋あたりで鰯の大群約10万匹が現れたニュースが朝日新聞に

紹介されました。

確かにこの3年程、環壕の魚影が濃くなっていると実感しています。
今でも堺の海でイワシ漁は盛んで、春木港の船が「巾着漁」という

巻き網漁を盛大に行っています。
環壕の奥まで来たイワシの大群は、かつての経済高度成長の汚染から

かなり回復したことを示すものだと思います。

のんびりクルーズの活動主旨である

「水辺の環境の大切さのPR」
「堺の観光資源の発掘と紹介」

の活動を継続して、次世代に引き継げればと思います。

堺の環壕1〜6はこれにて終演させていただきます。
ご清聴まことにありがとうございました^_^

皆様、良い年をお迎えください
Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 4:56 PM  Comments (0)

堺の環濠5

堺の環壕5

江戸幕府は1603年から1867年まで続きました。少なくとも200年は安泰な世の中だったと言えるでしょう。

 

江戸時代は比較的、分けあったり、助け合ったり、人に優しいのんびりした豊かな時代だったとおもいます。

当時、政治の不正問題も時代劇のように頻発してませんし^_^

 

落語の長屋噺で、誰かが鯛を1匹もらってくると何軒かで分けて最後は骨を出汁にする。

味噌、醤油、酒、米など日用品のほとんどツケで買うことが出来て、半年に一度の節季払い^_^

慰安旅行のルーツ、お伊勢参りや東海道の旅も盛んに行われて歌舞伎、落語など新しいエンターテインメントも拡がっていきました。

 

幕末、国際情勢の変化や外圧が高まり、のんびりした武家社会から鎖国か開国かで日本国内はヒートアップ。ついに1867年大政奉還となり翌年明治の世になりました。

急速に日本は近代化、富国強兵の道を進んでいくのは史実の通りです。

 

さて時代は昭和15年(1940年)、

マッチや砂糖の配給が始まりました。お米の配給は成人1人あたり一日2合です。

 

堺の大魚夜市も中止、大浜の水族館も閉鎖となります。また空襲の延焼を防ぐため大道筋拡張でいきなり立ち退き命令が発せられるなど、

「お国のため」「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」の言葉と風潮が幅を効かせて、恐ろしい世の中になっていきます。

反対の声を上げるとたちまち「非国民」の差別をうけて特高警察に目をつけられる。。。

 

近代化した日本が資源を確保するには外国と仲良くするしかないのですが、1932年満州国を建国したことで日本は世界から非難されます。

しかし資源を確保したい日本は軍国主義のもと拡張していき1937年日中戦争へ。

イギリス、アメリカ、ソ連など中国に租借地をもつ国と日本は完全に敵対しました。

そして日本はアメリカから石油の輸入を止められてしまいます。

当時の戦時国際法で軍事干渉してはならないとありましたが、世界の国を巻き込んだ太平洋戦争へと突き進みます。

 

1941年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃。

宣戦布告の対米通告については諸説ありますが、攻撃のあとにアメリカ側に伝わった為、不意打ちの結果になってしまいました。

これがのちにアメリカの沖縄、本土への容赦ない非戦闘員を巻き込んだ空襲と原爆の投下に繋がったという説があります。

 

資源の少ない日本は短期決戦しか選択の余地はありませんので次々に東南アジアを中心に領土の占領を拡げ、皇民化政策を急ぎましたが

1942年、ミッドウェイ、ガダルカナルの戦いで惨敗。日本の劣勢が色濃くなりました。

 

同じ年の1942年、アメリカボーイング社の大型長距離爆撃機「B-29」の試作機が完成します。

 

全幅 43メートル

全長 30メートル

航続距離 6000km

爆弾積載量 7トン

高度 10000メートル可能

 

日本から遥か遠いサイパンで大量の爆弾を積んで出撃攻撃、帰還できる飛行距離が可能で、航空機を打ち落とす為の高射砲は届かない高度で飛ぶ

高性能の最強爆撃機は日本の継戦能力を失くすのに十分な性能でした。

広島、長崎の原爆投下もB-29です。

 

1944年にはB-29は大量生産に移ります。

 

1945年、沖縄では4名に1名が亡くなる攻撃にさらされ、東京、名古屋、大阪、神戸など主要都市が激しい空襲によりたくさんの犠牲者を出しました。

日本の対空戦闘能力は削がれ、高度1500から3000メートルの「絨毯爆撃」はさらに攻撃の精度を上げて防空壕すら無力となります。

 

堺では1945年7月10日夜中から未明にかけて激しい空爆で3000名からの犠牲者が出ました。とくに竜神橋のあたりは凄惨でした。

堺は1945年3月から8月にかけて合計5回空襲を受けました。

 

被災合計

死傷者 2933名

被災家屋 19106件

被災人口 72439名

 

このうち5回目8月には焼夷弾ではなく機銃乱射で2名の非戦闘員が亡くなっています。

 

「堺」は1399年応永の乱、1615年大坂夏の陣、そして1945年太平洋戦争の3度にわたる「戦争」により大きな被害を受けました。

〜この続きはまた今度〜

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堺の環濠4

1615年(元和元年)、大坂の陣の後、堺の町を再興すべく人事移動がありました。
長崎から堺奉行として長谷川藤広氏が、そして町の区画整理責任者に風間六右衛門氏が着任しました。

長崎の奉行が着任したのは、堺と同じ「国際都市」の行政キャリアがあったからだと思います。

環壕復活と町の区画整理が始まりました。 
のちに、年号をとって「元和の町割」と呼ばれています。
環壕は一回り大きく盤の目の縦横の道が敷かれます。

今の堺の町の原型です^_^

町割については長谷川奉行も風間六右衛門氏も細心をはらっていたようです。

寺社や商家も多い堺は、いろいろな権力者が人脈を使って己の立地を有利に持っていこうとする働きが水面下で活発します。。

なかには囲碁のルートで家康公と接触を図る人もいたぐらいだったとか。

当時堺には、かつて京都で起こった宗派争いで堺に日蓮宗のお寺がたくさん引っ越ししていました。

今も堺は日蓮宗のお寺がたくさんあります。

六右衛門さんは日蓮宗の信仰深い人で、真面目な性格と言われており、その権力者たちの賄賂や

根回しを避けていたのではないでしょうか。
それが面白くない権力者たちは「風間六右衛門は日蓮宗の敷地を優遇している」と幕府にクレームを入れます。

1618年8月、そのクレームの件で幕府から呼び出しがあり江戸に来るよう命じられます。

六右衛門さんは江戸に行くと言い遺し環壕から出たすぐ北側にて切腹いたしました。

いろんな圧力で疲れ果てていたと考えられています。

しかし町割はそのまま残り、今もその面影が残っています。

【大坂夏の陣と南宗寺】
さて、少し話は戻りますが
大坂の陣が終結した翌年の1616年4月、徳川家康は駿府のお城で亡くなりました。享年75歳。
死因は「徳川実記」の内容から胃癌だったようです。

しかし堺の南宗寺の伝説では、、、
1615年5月夏の陣の茶臼山の戦いで「後藤又兵衛」が馬上から家康の乗った駕籠を屋根から槍で突き刺します。が駕籠の中を確認する間もなく徳川陣が退却。
しかしこれが致命傷となり家康が亡くなります。
家康死亡の噂が広まると再び世の中が乱れてしまうという判断で極秘に南宗寺境内で埋葬した、、と。

ただ茶臼山の攻撃は5月8日です。
堺に火を放ったのは4月28日。
南宗寺はすでに焼失していますし、後藤又兵衛は茶臼山の戦いではすでに戦死したあとなので時期が合わない。
焼けた南宗寺跡にとりあえず埋葬したのか、また別のところで保管しておいて町割が完成したのち現在の南宗寺にお墓を移したものなのかはわかりません。

火を放たれるまえの南宗寺は現在の場所から少し北の位置にありました。

現在の南宗寺は夏の陣から4年後、1619年沢庵和尚によって再興されました。
ちなみに大根を使った漬物の「たくわん」はこの和尚さんが考えたという説があります。
( ̄▽ ̄)

南宗寺には伝説を納得させる部分があります。

①葵の紋の瓦がある
②南宗寺の北へ伸びる道はかつて「権現通り」と呼ばれていた。徳川家康公亡き後、朝廷から「東照大権現」の神号をもらっています
③2代目将軍徳川秀忠と3代目将軍徳川家光が夏の陣から数年後に南宗寺をお参りに来ている。
④多くの「だんじり」には大坂の陣をテーマにした彫物が多くみられ、

なかには徳川家康が討たれそうになる場面や後藤又兵衛の跳ね槍の場面がある。
⑤空襲までは南宗寺境内に東照宮があった。

また松下幸之助氏の名前など列記した「徳川家康の墓」の碑があります。

私が勤めていた劇場で「水戸黄門」のお芝居がありました。当時水戸光圀役が西村晃さんでした。
その事務所の社長さんは元松下電器の宣伝出身の方で
「♫明るいナショナル〜」のCMフレーズを考えた人です。
碑について尋ねると「ん〜、水戸黄門のスポンサーが松下電器だからかも」
とのことでした^_^

大坂の陣は、関ヶ原の戦いの失業者がいろんな思惑で大坂城に集まった戦いです。
この戦に参加してもメリットがないはずの真田幸村、後藤又兵衛らは

「徳川の世で細々と生きていくなら一戦交えて散ろう」と命を懸けたのでしょう。

その捨て身の活躍が兵数、武器がはるかに上回る幕府と善戦したことが150年続いた戦国時代という大舞台の

大トリとなって、後々まで芝居や彫り物になるなど伝説化したのだと思います。

大阪は豊臣贔屓とよく言われますが、堺は秀吉によって環壕を埋められ秀頼によって燃やされています。

しかし徳川家は堺を幕府直轄領にして環壕、町割により蘇っております。

 

 

 

Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 10:11 AM  Comments (0)

堺の環濠3

豊臣秀吉はあまり裕福でない半農半士の家に生まれました。
右手の親指が生まれつき2本あって、当時、世間体を気にする家柄であれば出生してすぐ手術したそうです。

しかし裕福でない家だったせいか放ったらかしだったんでしょうね^_^

天下人として出世する中、手のことは周りも遠慮があったのか、記録にはあまり残ってませんが、

織田信長の秀吉への呼び名「六つめ」だったり
あまり秀吉のことを好きでなかったルイスフロイスの母国宛の手紙、
旧友の前田利家の書簡などには記載されています。

秀吉は再婚した母親の新しい父親とソリが合わず家を飛び出し、縫針の行商をしながら放浪へ。
このとき2000名規模の傭兵軍団の頭領「蜂須賀小六」と出会っています。
秀吉が人たらしで商才に優れていた人物であったのは間違いないでしょう。
織田信長が本能寺で斃れたあと、豊臣秀吉がその実権を握り天下を統一しますが、

晩年は秀頼を授かって以降、政策の評判はよくありませんでした。

有名な秀吉の辞世の句

「露となり、露と消えにし
我が身かな
浪速のことは夢のまた夢」
があります。

露のように生まれ、露のように消える自分。
大阪での栄華は夢を見てるようであったなぁ、、

どんなに波乱万丈、大出世しようとも人生って儚いものなんですかね( ̄ー ̄)

豊臣秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった徳川家康が江戸幕府を開きました。

幕府は全国のインフラなど街道の整備を進めていきます。世の中が落ち着いてきたところで

最後は莫大な財産をもつ「豊臣家」の解体に着手します。そんな中で幕府と
一戦を交える空気は高まり1614年11月、太閤秀吉の恩義を受けた大名、幕府の政策に不満をもつ者、浪人など

いろんな思惑で反幕勢力などが大坂城に集まり戦争準備をします。
そして12月戦闘が始まります。のちに冬の陣と呼ばれる戦いです。

真田幸村らの大活躍で優勢だった豊臣方ですがそのあとの協議で幕府側と和睦をむすび

大阪城の外堀を埋める約束がそのまま内堀も埋められ、門や櫓も破壊されてしまいます。
そして1615年4月、夏の陣に突入していきます。
この月に豊臣方大野道犬が徳川方の武器支援、兵站の役を果たしていた堺の町に火を放ちます。

堺の町は2万軒の寺社、家屋が焼けてしまいます。
怒涛の進撃で真田幸村、後藤又兵衛などの活躍で徳川家康を切腹の覚悟を2回させるくらいまで追い詰めますが

5月、主力の真田幸村など戦死、大坂城は落城して応仁の乱から150年続いた戦国時代に終止符がうたれました。

堺に火を放った大野道犬は6月、堺の王子が飢(現在の大阪刑務所あたり)で火あぶりの処刑になります。
お墓は刑場から明治に入って堺の月蔵寺に移されています。

月蔵寺の立派な土塀は、大阪夏の陣で焼かれた家屋の瓦が塗り込められています。

戦が終わって堺には長崎の奉行が堺に異動してきました。そして町の復興責任者である

風間六右衛門が着任します。

~この続きはまた今度~

↓月蔵寺の門と土塀


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