堺会合衆の10人

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
「もういくつ寝るとお〜正〜月〜♪」ということで今年も残すところあとわずかとなりました。
今年もブログをご高覧いただきまして、誠にありがとうございました。
来年も皆様により良いブログをお届けして参りたいと思いますので、引き続き宜しくお願い申し上げます。
皆様が良いお年をお迎えになられますよう、心よりお祈り申し上げます。

今回は「堺会合衆の10人」について・・・

【堺会合衆の10人】〜諸説あり〜
「この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と、弘治2年(1556)に堺の様子を見た宣教師のガスパル・ヴィレラが、ある書簡に記しました。
執政官というのは、堺会合衆を指しているといわれています。
この「堺会合衆」とは、室町時代から安土桃山時代に堺の豪商や町衆のリーダーで構成された組織です。
メンバーは、茜屋宗佐,油屋常琢,今井宗久,塩屋宗悦,千利休,高三隆達,津田宗及,紅屋宗陽,松江隆仙,山上宗二の10人といわれています。
この10人は一体どのような人物だったのか、1人ずつ紐解いて参りましょう。

・[茜屋宗佐(あかねやそうさ)]茶人・商人
天王寺屋会記に名がみえる茶人
武野紹鴎より茶の湯を学び、茶人として活動する傍ら輸入雑貨商として活躍しました。
また、鶴首茶入れや柿形茶入れなどをはじめとする多くの名物茶器を所有していたといわれています。

・[油屋常琢(あぶらやじょうたく)]豪商
徳川家康の伊賀ルートを手助けした豪商
本姓は伊達といい、油屋という薬師問屋を営んでいたことから油屋と呼ばれ、油屋肩衝などをはじめとする多くの名物茶器を所有していたといわれています。
また、堺に建立されていた妙国寺を完成させました。
本能寺の変が起きた際、徳川家康はこの妙国寺に宿泊し、油屋常琢の接待を受け、三河への脱出を手助けされたといわれています。

・[今井宗久(いまいそうきゅう)]商人・茶人
天下一の商人にして天下三宗匠
大和国高市郡今井村に生まれ、立身出世を志し南蛮貿易で活気溢れる堺へ出たといわれています。
商人として修業を重ねると同時に教養を身に付けるため、武野紹鴎より茶の湯を学び、やがて鉄砲や火薬製造にも携わり、堺での立場を確立しました。
織田信長の天下統一を側面から支え、総合軍事産業の事業家として巨万の富を築き、一代で天下一の商人となりました。

・[塩屋宗悦(しおやそうえつ)]茶人
多くの名物茶器を所有していた茶人
武野紹鴎より茶の湯を学び、茶人として活動し、天文23年(1554)以降、毎年茶会を催していたといわれています。
また、天正元年(1573)11月23日に織田信長が妙覚寺で催した茶会に津田宗及や松江隆仙と共に招かれ、汁・刺身・茶碗をのせた三の膳まで用意され、手厚くもてなされました。

・[千利休(せんのりきゅう)]茶人・商人
侘び茶を大成させた天下一の茶人
堺で塩魚を扱う商人ないし、その商人たちに倉庫を貸す「問」といわれている家業の跡取りとして、品位や教養を身に付けるため、武野紹鴎より茶の湯を学びました。
やがて、武将が次々と千利休に弟子入りし、後に利休七哲という優れた高弟が生まれ、侘び茶を大成させました。
また、北野大茶会の茶頭を務めるなど、天下一の茶人として名声が世に広まりました。
しかし、豊臣秀吉により自害に追い込まれ、切腹という壮絶な最期を遂げました。

・[高三隆達(たかさぶりゅうたつ)]僧・小歌隆達節創始者
堺が生んだ天才シンガーソングライター
堺で薬種問屋を営む末子として生まれ、跡取りではないため日蓮宗顕本寺の僧となりました。
しかし、兄の没後に還俗し家業を補佐します。
その傍ら、連歌・声曲・書画などに優れていたことから作詞作曲を行うと独特な声調の隆達節が大ヒットし、500首以上の歌が誕生しました。
また、「堺流書道」の達人として豊臣秀吉にも召し出されたといわれ、多彩な才能を発揮しました。

・[津田宗及(つだそうぎゅう)]商人・茶人
蘭奢待を与えられた茶人
堺南荘の豪商で茶人としても活躍していた父・宗達より茶の湯を学びました。
やがて、織田信長の茶頭の一人となり、千利休や今井宗久と共に「天下三宗匠」と呼ばれました。
また、天正2年(1574)に堺会合衆の10人が織田信長に招かれた相国寺茶会では、津田宗及と千利休が織田信長から蘭奢待を与えられたといわれています。
そして、天正6年(1578)に織田信長が堺を来訪した際は、自邸に訪問を受けるなど重用されていたエピソードも残されています。

・[紅屋宗陽(べにやそうよう)]商人・茶人
堺会合衆の中でもトップクラスの存在
武野紹鴎より茶の湯を学び、度々茶会を催したといわれています。
しかし、織田信長が各地の勢力に将軍への忠誠を示すため大義名分をつけ、堺へは2万貫(現在の価格にして約20~30億円)を課しますが、紅屋宗陽はこれを拒否します。
しかし、今井宗久の説得により要求を受け入れる方針に変更したことを機に織田信長との関係を深めました。
ところが、天正11年(1583)に豊臣秀吉の怒りを買い、追放以上の刑に処せられた者の領地や財産を没収される闕所(けっしょ)処分を受け、所有していた茶器を没収され、以後消息がわからなくなったといわれています。

・[松江隆仙(まつえりゅうせん)]商人
織田信長に手厚くもてなされた商人
天正元年(1573)に織田信長が妙覚寺で催した茶会に塩屋宗悦や津田宗及と共に招かれました。
織田信長より手厚くもてなされたといわれているこの茶会、床には日本の水墨画に大きな影響を与えた牧谿(もっけい)の「洞庭秋月(どうていしゅうげつ)」の絵、そして斎藤道三と縁のある京の茶人・不住庵梅雪(ふじゅうあんばいせつ)が茶頭を務め、贅を尽くした茶会といわれています。

・[山上宗二(やまのうえそうじ)]茶人
千利休の一番弟子
堺の薩摩屋という商家に生まれ、堺の南の山上に住んでいたことからその地名をとったといわれています。
豪商で茶人としても活躍していた父・宗壁の背中を見ながら、幼少期より高価な茶器や名具に携わり、茶の湯に徐々に興味を示します。
そして、後に師となる千利休と出会い、茶人としての活動をスタートさせました。
千利休の一番弟子といわれ、茶人として「堺にての上手にて物をもしり人におさるる事なき」と評価されていました。
一方、「口悪きものにて人のにくしみものなり」といわれていた山上宗二は、やがて豊臣秀吉の怒りを買い、惨殺される最期を遂げ、46年の人生に幕を降ろしました。

以上、「鎌倉殿の13人」ならぬ「堺会合衆の10人」でした。
最後までありがとうございました。
また、来年も船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【レッツ!トライ!堺会合衆の10人クイズコーナー〈難問度:★★★〉】
堺会合衆が構成されていた人数について10人という説ともう一つ説があるといわれていますが、それは次のうちどれでしょうか?
1、36人
2、54人
3、72人
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【曽呂利新左衛門クイズ〜正解発表〜】
令和四年(2022)10月4日のブログ[曽呂利新左衛門]で出題したクイズの正解は「3、作庭」です。

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〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 運航日記 — kc-sakai 9:31 PM  Comments (0)
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