与謝野晶子
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
今回は【与謝野晶子】について~諸説あり~
与謝野晶子
歌人・作家・思想家
明治十一年~昭和十七年(1878~1942)
与謝野晶子は、明治十一年(1878)に堺の老舗和菓子屋に生まれました。
戸籍名は与謝野志やう(よさのしょう)、旧姓は鳳「ほう」、ペンネームの「晶子」の「晶」は本名の「しょう」から取られたといわれてます。
四つ角に面した自宅兼店舗の屋根の大時計に加えて2階の窓を西洋風の両開きにした老舗和菓子屋「駿河屋」を営む父・鳳宗七と母・津祢の三女として生まれました。
3人目の女の子であることから疎まれて育てられましたが、漢学塾へ入り、琴や三味線を習い、堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学し、源氏物語や小説を読み、古典も親しみました。
学校から帰宅すると、羊羹が有名な自宅兼店舗の和菓子屋で計算や包装を捌きながら上手に接客する傍ら商品の管理や帳簿付けを担当し、毎年正月に販売する勅題にちなむ和菓子の創案や羊羹場と呼ばれる製造現場で和菓子を作り、羊羹を切り、懸命に手伝いをする晶子を両親は頼りにしていたといわれてます。
手伝いを終えた晶子の楽しみは、父の蔵書を端から端まで読む読書の時間でした。
浪華青年文学会に参加後の明治33年(1900)に浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と出会い、鉄幹が創立した新詩社の機関誌「明星」に短歌を発表しました。
そして、家出同然で東京に移り、処女歌集である鉄幹へのあふれる愛と青春のみずみずしさを歌いあげた浪漫主義の代表作「みだれ髪」を刊行し、歌人としてのスタイルを確立させ、鉄幹と結婚し、12人の子宝に恵まれました。
大正10年(1921)に建築家の西村伊作・画家の石井柏亭・鉄幹と共にお茶の水駿河台に文化学院を創設し、男女平等教育を唱え、コテージは英国の建物にし、日本で最初の男女共学を成立させました。
ところが、鉄幹の詩の売れ行きは悪く、大学教授の職に就くまで家計が成り立たず、晶子は仕事の依頼を全て引き受けなければなりませんでした。
忙しい日々に追われながら、こし餡を炊いておはぎを作り、こし餡の汁粉でお汁粉を作り、よく近所に配り、風習や年間行事は家族で過ごし、晶子の作る和菓子を家族で囲む時間を大切にしていました。
仕事や家庭を両立させ、晶子が残した歌は5万首にも及び 、即興短歌会開催・源氏物語の現代語訳・詩作・評論活動など執筆活動を展開する一方、女性の自由と自立を求め、権利に焦点をあてた評論も多く著し、地位向上に積極的に取り組み、故郷である堺を懐かしむ数々の短歌を詠みました。
晶子の故郷に対するイメージは2つ、1つ目は海のイメージ、2つ目は駿河屋で家族・親戚・店で働く方と過ごす明るく楽しい賑わいや活気でした。
2つのイメージから詠まれた故郷の短歌は、美しく切ないほど哀愁を帯びるも、故郷への愛が垣間見えます。
情熱の歌人は、 力強くエネルギッシュな生涯を明治・大正・昭和を短歌と共に生き、巨大な足跡を残しました。
現在でも絶大な人気を誇る晶子は、堺の各地に歌碑や南海本線堺駅西口に銅像も建てられ、晶子の足跡を辿ることが出来ます。
足跡を辿ることで、更なる晶子の世界を学びながら偲びたいと思います。
最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。
レッツ!トライ!【与謝野晶子クイズ】コーナー
「駿河屋」が発祥といわれている和菓子は次のうちどれでしょうか?
1、煉羊羹
2、おはぎ
3、お汁粉
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。
【堺打刃物クイズ】~正解発表~
令和二年(2020)9月11日のブログ[堺打刃物]で出題したクイズの正解は、、、「1、与謝野晶子」です。
与謝野晶子の歌に七町の歌があることは、七町が有名であるという証の一つとなりました。
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