遊覧船ガイドのお話の稽古②三味線の話

堺の貿易が盛んだった1562年。琉球から堺の港へ来た船乗りがお土産に珍しい弦楽器を持ちかえりました。
蛇皮の丸いボディに2弦(もともと3弦のうち1弦切れてたかも)を張ったサムシェン(三線)と呼ばれるその楽器は、中国から琉球に伝わり当時はすでに琉球内で普及しておりました。
このお土産をヒントに堺の盲目の琵琶法師が弦3本、太く長い棹(ネック)、四角くしたボディに猫皮を張り、大きな撥(巨大なピック)で弾くように仕様改造したのが三味線の始まりです。
盲目の障害を克服して収入を得るため、琵琶法師に盲目の方が多かったんです。。
琉球からきたそのサムシェンのサイズでは琵琶より小さいため、演奏の感覚が慣れている琵琶のサイズに改造しました。
さて1527年、「高三隆達(たかさぶりゅうたつ)」という人が堺で生まれました。
隆達の祖先は12世紀に中国から九州に渡来、そのあと堺にやってきて薬種商を営んでいました。
隆達は子どものころに日蓮宗顕本寺(宿院にあります)で出家、仏道を修行する一方で、声曲、連歌、書画に非凡な才能を発揮していたそうです。
芸能が大好きだった豊臣秀吉からのリクエストで歌や自筆の書を呈上してたいへん喜ばれたとあります。
やがて古歌や自作の詞にオリジナルの節まわしをのせた「隆達節」というジャンルを確立します。その曲の数はなんと500曲超え。
曲調は文字数7→5→7→5..の詞を繰り返しの形式。いまの小唄です。歌詞は恋愛感情や男女の機敏な関係などが多く、また戦乱や疫病の時期の作品では「人生一度だけ、、」的な曲もありました。
堺で開発された三味線が全国に展開する時期と相まって、新鮮で堅苦しくない「隆達節」は全国に受け入れられて広がっていきました。
隆達さんてシンガーソングライターでもあるモダンなお坊さまだったんですねー( ̄▽ ̄)
三味線は日本を代表する楽器のイメージがありますが古代からあった琴、琵琶、太鼓、笛などに比べるとずーっと新しい楽器になります。
やがて時代とともに和事歌舞伎、荒事歌舞伎、義太夫、人形浄瑠璃、落語、民謡、漫才などに幅広く用いられていきます。
また持ち運びが便利なように棹が3分割します。
ギターがポピュラーになる前は、宴会では
みんなが集まれば三味線で盛り上がったりしていました
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遊覧船ガイドの話の稽古①大和川の話

大阪市と堺市の間にある大和川はもともと奈良から流れてきて石川と合流、河内平野を通って淀川に流れていました。
その川を中心に古代から田畑が開かれてましたが天井川のためたびたび川の氾濫、洪水があり、奈良時代から治水対策の工事が行われていたと記録にあります。
洪水の被害を解決すべく「大和川付け替えの嘆願書」と「付け替え予定地反対の嘆願書」が双方の地元農家などから提出されますが1703年、幕府が工事費をほとんど負担する形で現在の大和川の付け替えが決定します。
このとき堺の商人たちの反対が思ったより少なかった背景として、貿易よりも金融業にシフトしていたためという説があります。
8か月という早さで1704年に付け替え工事が完了してから旧大和川のまわりでは50ヶ所以上の新田が開発されて、年貢が増え5年後には幕府の負担費用の補てんができました。
逆に完成した大和川が運んでくるたくさんの土砂によって堺の河口では4ヶ所の新田ができましたが、中世の繁栄のシンボルだった堺の港は埋没してしまいました。
その様子をみてなんとかしなければと立ち上がった人が江戸浅草の商人「吉川俵右衛門」でした。
吉川俵右衛門の呼びかけにより地元の協力者などを取り付けて1790年から約20年がかりで堺の港を修復します。これが現在の堺旧港の原型です。
先人の治水と港復興の苦労の歴史に感謝しつついまもある自然災害の被害にあわれた皆様へ心よりお見舞い申し上げます。
Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 11:19 AM  Comments (0)
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