2019 年 11 月 17 日
遊覧船ガイドの話の稽古①大和川の話
大阪市と堺市の間にある大和川はもともと奈良から流れてきて石川と合流、河内平野を通って淀川に流れていました。
その川を中心に古代から田畑が開かれてましたが天井川のためたびたび川の氾濫、洪水があり、奈良時代から治水対策の工事が行われていたと記録にあります。
洪水の被害を解決すべく「大和川付け替えの嘆願書」と「付け替え予定地反対の嘆願書」が双方の地元農家などから提出されますが1703年、幕府が工事費をほとんど負担する形で現在の大和川の付け替えが決定します。
このとき堺の商人たちの反対が思ったより少なかった背景として、貿易よりも金融業にシフトしていたためという説があります。
8か月という早さで1704年に付け替え工事が完了してから旧大和川のまわりでは50ヶ所以上の新田が開発されて、年貢が増え5年後には幕府の負担費用の補てんができました。
逆に完成した大和川が運んでくるたくさんの土砂によって堺の河口では4ヶ所の新田ができましたが、中世の繁栄のシンボルだった堺の港は埋没してしまいました。
その様子をみてなんとかしなければと立ち上がった人が江戸浅草の商人「吉川俵右衛門」でした。
吉川俵右衛門の呼びかけにより地元の協力者などを取り付けて1790年から約20年がかりで堺の港を修復します。これが現在の堺旧港の原型です。
先人の治水と港復興の苦労の歴史に感謝しつついまもある自然災害の被害にあわれた皆様へ心よりお見舞い申し上げます。