遊覧船ガイドの話の稽古⑤お酒の話

お酒の話
昭和40年代の記憶では「汚いわがまち」がデフォルトになっておりました( ̄ー ̄)
ゴミ箱みたいで悪臭のひどい土居川。
水が真っ黒で一般のゴミやら動物の骨が散乱してる大和川。
そりゃまー汚かったですねー。
でも汚い水環境は戦後の経済成長のスピードに下水整備が追いつかなかったここ70年ほどの話。
じつは明治から大正にかけて堺の製造業で1番盛んだったのは酒造業でした。
阪堺電鉄が南北に走っている「大道筋」の西側から南は石津あたりにかけて個人事業含めて100近い酒蔵があったというので驚きです。
海の沿岸でミネラル豊富の美味しい地下水があったんでしょうねー( ̄▽ ̄)
堺の酒造は室町時代からすでに記録があり、江戸時代には最盛期を迎えて明治時代にかけて6万石(一升瓶600万本相当)の生産高を誇り当時、灘、西宮、伊丹、堺ほか「摂泉十二郷」と呼ばれておりました。1879年(明治12年)堺の酒造家の鳥井駒吉さんが中心となって堺酒造組合を設立、酒蔵の火災保険会社、精米会社、酒造改良試験所など設立、醸造技術を進化させました。そして1887年(明治20年)共同醸造場を設立しコスト削減を実現。また酒容器では初めて瓶詰めで商品化して1888年(明治21年)バルセロナ万博に出展、それから日本酒はアメリカ、ロシア、朝鮮、ハワイ、台湾、沖縄などに輸出されるようになり外貨獲得で大いに貢献いたしました。
しかし、、1887年(明治20年)あたりから良質な水が不足するようになり仕込水を灘、西宮に頼ることが増えてきました。
また建物が密集している堺では酒造のための土地拡張が難しい。そのためどんどん酒蔵は灘へ引っ越し、95あった酒蔵が20ほどになります。
戦時中、酒造の制限もあって一つの会社にまとめられますが、のこった 酒蔵も空襲でかなりの被害がでました。
そして1966年(昭和41年)ついに堺のすべての酒造業は灘に移されて消滅しました。
灘で作られていた堺の銘柄「金露」、「都菊」も後の神戸の震災で被災、なくなってしまいました。
しかし近年、地酒復活に情熱を注いだ堺泉酒造さんが たいへんな苦労の末、2014年に「千利休」を蔵出ししています。いまも「フェニックス堺」の気概が受け継がれています^_^
Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 10:26 AM  Comments (0)
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