山上宗二

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【山上宗二】について~諸説あり〜

山上宗二
茶人
天文十三年〜天正十八年(1544〜1590)

美しく咲いた桜が散りゆく晩春、千利休の一番弟子であった山上宗二という茶人が凄惨な最期を遂げました。

山上宗二は、天文十三年(1544)に堺の薩摩屋という商家に生まれました。
堺の南の山上に住んでいたことからその地名をとったといわれています。

豪商で茶人としても活躍していた父・宗壁の背中を見ながら幼少期より高価な茶器や名具に携わり、茶の湯に徐々に興味を示し、後に師となる千利休と出会い、茶人としての活動をスタートさせました。

永禄八年(1565)、21歳になった山上宗二は千利休や今井宗久をはじめとする茶人を4人招き、華々しい茶会デビューを果たします。

天正元年(1573)、足利義昭を京都から追放し、浅井久政や長政に加え三好義継を滅ぼし、機嫌が良い織田信長より京都妙覚寺で催された茶会に招かれ、明智光秀や細川藤孝と親睦を深めました。

この時、今井宗久は53歳、千利休は51歳、山上宗二が29歳であったことから若くしてとんとん拍子に出世したことが見受けられます。
そして、天正九年(1581)、千利休と共に播磨姫路城の豊臣秀吉を訪ねたことを機に交流を深め、茶頭の一人となりました。

茶人として「堺にての上手にて物をもしり人におさるる事なき」と評価されていた一方、「口悪きものにて人のにくしみものなり」といわれていた山上宗二は、歯に衣きせぬ物言いによって人の憎しみを買うことが多かったといわれています。

師である千利休をはじめとする茶人が豊臣秀吉に好かれようとする態度が気に食わなくなり、「わび」の追求に注力するあまり批判とも取れる見解で非難するようになりました。

その態度は次第に激しさを増し、ついに豊臣秀吉の怒りを買い追放処分を受け、加賀の前田利家に仕えます。
しばらくして、許しを得て堺に戻りますが、再び豊臣秀吉の怒りを買い、堺を去り高野山に逃れます。
そして、既に自身の死を予感していたのか、自ら余すことなく書き記した茶の湯の秘伝書「山上宗二記」を高野山に逃れるまでに3人、さらに没年までに10人前後の弟子や大名などへ贈りました。
そして、豊臣秀吉と関係が悪化していた小田原の北条氏のもとに身を寄せ、小田原に来住します。
この来住により、茶の湯文化の勢いに大きな影響を与え、小田原で茶の湯文化が大流行したといわれています。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉は天下統一のため小田原の北条氏を滅ぼす戦いを始め、小田原城を見通せる石垣山城を築き、千利休が主催となる茶会を連日催しました。
千利休は、山上宗二に豊臣秀吉へ謝罪するよう説得し、面会が叶います。

面会が叶い、ようやく豊臣秀吉から再び許しを得て茶頭として再登用を伝えられますが、なんと山上宗二はこれを断りました。
さらに、茶席に仕えていた北条幻庵に義理立てしてしまい、豊臣秀吉から凄まじい怒りを買ってしまいます。
そして、山上宗二は惨殺される最期を遂げ、46年の人生に幕を降ろしました。

豊臣秀吉の怒りの原因について、明確に説明ができる資料は残されていないといわれています。
その道を極めるというのは今も昔も難しいですが、己を貫き通した山上宗二は一流の茶人として、紛れもなく後世に名を残しました。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

レッツ!トライ!【山上宗二クイズ】コーナー

山上宗二が山上宗二記の中に書き記した四字熟語は次のうちどれでしょうか?
1、暗中模索
2、五里霧中
3、一期一会
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【堺市難読地名クイズ(堺区バージョン)】〜正解発表〜
令和四年(2022)1月24日のブログ[堺市難読地名クイズ〜堺区バージョン〜]で出題したクイズの正解を発表します。
(1)遠里小野町=おりおのちょう
(2)錦綾町=きんりょうちょう
(3)百舌鳥夕雲町=もずせきうんちょう
(4)並松町=なみまつちょう
(5)北旅籠町=きたはたごちょう
(6)九間町=くけんちょう
(7)神明町=しんめいちょう
(8)熊野町=くまのちょう
(9)甲斐町=かいのちょう
(10)神南辺町=かんなべちょう

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話 — kc-sakai 10:58 AM  Comments (0)
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