ザビエル公園と黄金の日々

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【ザビエル公園と黄金の日々】について~諸説あり
天文十九年(1550)12月、厳しい寒さを耐え抜き、堺を訪問したイエズス会宣教師:フランシスコ・ザビエルは、堺の豪商:日比屋了慶より、手厚いもてなしを受けていました。
日比屋了慶は、堺櫛屋町に構えた当時は珍しい瓦葺き木造3階建ての屋敷を聖堂にあて、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスをはじめとする宣教師の布教活動の拠点として手厚くもてなし、自らも洗礼を受けました。
聖堂にあてた屋敷は「南蛮寺」といわれ、永禄六年(1563)12月には日本で初めてのクリスマスがこの南蛮寺で行われたといわれています。

日比屋了慶の屋敷周辺には、黄金の日々を謳歌し自治都市として栄えていた堺を支えた小西行長や武野紹鴎、今井宗久や千利休の屋敷もありました。
屋敷に茶室を設え、茶人としても著名であった日比屋了慶は、特に千利休と交流を深めました。
また、利休七哲といわれた千利休の七人の高弟の中にキリシタン大名がいたことから、キリスト教が茶道に大きな影響を与えたといわれています。

堺の豪商:日比屋了慶が堺櫛屋町に構え、「南蛮寺」といわれた屋敷は、昭和二四年(1949)にフランシスコ・ザビエルの来航400年を記念した公園が開設され、「ザビエル公園」と命名されました。
日比屋了慶が多くの人を手厚くもてなした屋敷は、約470年という長い年月を経て、現在も多くの人から愛され、春の桜や秋の紅葉が私達を手厚くもてなしてくれています。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。


レッツ!トライ!【ザビエル公園と黄金の日々クイズ】コーナー
ザビエル公園の正式名称は次のうちどれでしょうか?
1、戎公園
2、日比屋公園
3、南蛮寺公園
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 横山やすしクイズ 】~正解発表~
令和三年(2021)4月18日のブログ[横山やすし]で出題したクイズの正解は、、、「1、自衛隊」です。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,日記,観光案内,運航日記 — kc-sakai 12:05 PM  Comments (0)

地震の教訓を語り継ぐ「擁護璽」

大浜公園に今から166年前の1855年に建てられた「擁護璽」(ヨウゴジ)という大きな石碑があります。

その石碑の裏側には、1854年に東海地震と南海地震が立て続けに起きた時、津波や家、橋の倒壊など多数被害が出ましたが、みんな神社の庭など広いところに避難したので犠牲者が出なかった、というようなことが書かれております。

それは314年前の1707年の東海地震、南海地震のとき(この年に富士山も爆発しています)、家や橋が倒壊して船で逃げようとしたところ津波に飲み込まれて多数の犠牲者が出たという経験が語り継がれていたのでその教訓によって犠牲者が出なかったそうです。

2月13日深夜、東日本大震災の余震と見られる大きな地震がありました。南海地震もいつ起きてもおかしくない状態なので非常時に備えておきたいものです。

Filed under: 堺のお話,運航日記 — kc-sakai 1:44 PM  Comments (0)

堺会合衆黒幕説から見る本能寺の変

【年始挨拶】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
謹んで新年のお慶びを申し上げます。

本年も皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げますとともに、新型コロナウイルスの一日でも早い終息、また、堺のんびりクルーズの運航再開をお祈り致します。

一人でも多くの方に一つでも多くの事を発信出来ますよう、務めて参りたいと思いますので、本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

今回は【堺会合衆黒幕説から見る本能寺の変】について~諸説あり~

天正十年(1582)6月2日早朝、堺から約60km離れた距離にある本能寺で明智光秀が主君の織田信長に襲撃した事件「本能寺の変」は、約440年の年月を経た今もなお日本史最大の謎とされています。

明智光秀が織田信長を討つ動機を明らかにした史料や手紙は後難を恐れて隠蔽したとされていること、また、明智光秀の重臣も短期間で討たれたとされていることから、動機を示す資料が極めて少ないため推理や憶測という想像を働かせる余地が大きくなるにつれ、数多くの説が誕生しました。
どの説も未だに定説に至らないとされていますが、その中でも「堺会合衆黒幕説」が誕生した背景や本能寺の変前日に開催された「堺茶会」から見えてくる本能寺の変に渦巻く人間模様に目を向けたいと思います。

本能寺の変前日6月1日雨天、本能寺茶会が開催されました。
主賓は島井宗室、参加者は一条内基・近衛前久・近衛信基・九条兼孝・二条昭実ならびに公家及び寺社や商人の代表など約40名にのぼりました。

この茶会開催に伴い、安土城で保管されている名物茶器など約40種が本能寺大茶会で披露され、歓迎された参加者は美しく珍しい名物茶器を目の前に茶を嗜みました。
ただし、この茶会開催に伴う織田信長の目的は大きく二点ありました。

一点目は、当時の「天下三大名器」の三つのうち、二つを所有している織田信長が、あと一つを所有している博多の商人・茶人でこの茶会の主賓である島井宗室へ事前に商売の保護を条件に献上するよう命じ、あと一つの名器「楢柴」を手に入れることでした。

二点目は、明や朝鮮と貿易を営み巨万の富を築いていたこの島井宗室と親密な関係を築くことで、海外からの輸入ルートをもつ島井宗室をはじめとする博多商人と親密な関係を築くことでした。
ところが、織田信長の強さの一つである鉄砲戦術活用の武器となる鉄砲や弾薬は、堺商人から入手していたため、織田信長が博多商人へ目を向けようとしている事実は、堺の豪商や有力者により構成された組織「堺会合衆」に強く大きな衝撃を与えました。

今井宗久・千利休・津田宗及などから構成されていた堺会合衆の中で、鉄砲の輸入販売を軸に置いていた津田宗及が特に大打撃を受けることが予想されていました。
その津田宗及ならびに千利休をはじめとする一流の堺茶人は、本能寺茶会と同日に開催された「堺茶会」で徳川家康の接待をしていました。

この堺茶会の接待を指示したのが織田信長であること、また、本能寺茶会で博多商人である島井宗室に目を向け親密な関係を築こうとしたとされていたことから、本能寺と堺で開催された重要な茶会を同日開催にしたのは意図的とされています。

さらに、この同日開催という情報を津田宗及ならびに千利休をはじめとする堺会合衆は事前に入手し、明智光秀に伝えたのではないかとされています。
特に、織田信長が博多商人へ目を向けることで大打撃を受けることになる津田宗及は、坂本城において年に二回茶会を開催するなど明智光秀と親密な関係を密かに築いていました。

また、本能寺の変直前に津田宗及と豊臣秀吉が密会していた記録が残されていることなどから、本能寺の変からしばらくの間は疑いの目が向けられていた記録があるといわれています。

このことなどから、黒幕は津田宗及が有力ではないかという説が浮上しました。
また、他説の一つとして織田信長に本能寺茶会を進言した千利休が黒幕という説も浮上しています。
侘び茶を大成させた千利休は、堺出身でした。
強引な方法で出身地である堺を支配しようとしたり、名物狩りをしたりする織田信長を忌み嫌う堺商人の姿を常日頃から目の当たりにし、ヒートアップしていく姿勢や態度に千利休は我慢の限界を感じていました。

そして、織田信長が是が非でも手に入れたいとされていた本能寺茶会の開催に伴う織田信長の目的の一つで冒頭に登場した天下三大名器の一つ「楢柴」で織田信長を引き寄せ、本能寺茶会開催を進言したとされています。
そして、千利休は連歌師である里村紹巴を通じ、明智光秀に暗殺の企てを伝えたといわれています。
このことなどから、黒幕は千利休が有力ではないかという説が浮上しました。

こうして、津田宗及や千利休をはじめとする堺会合衆が黒幕ではないかとされる数多くの説が誕生していますが、今となれば知る術もありません。
「敵は本能寺にあり」と、言う者・言われる者・言わす者、真実はいかに。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

レッツ!トライ!【堺会合衆黒幕説から見る本能寺の変クイズ】コーナー
徳川家康の伊賀越えを支援した堺の薬問屋主人である油屋常琢は、三好義賢の寄進で堺に建立された「○○寺」を大規模に改築、また、本能寺の変前日に開催された堺茶会の接待を受け終えた徳川家康が宿泊したともいわれていわれいる○○に入る寺は、次のうちどれでしょうか?
1、妙国寺
2、南宗寺
3、大安寺
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【今井宗久クイズ】~正解発表~
令和二年(2020)11月22日のブログ[今井宗久]で出題したクイズの正解は、、、「1、黄梅庵 」です。
黄梅庵は、奈良県橿原市今井町の豊田家にありました。
そして、豊田家で今井宗久ゆかりの茶室として代々引き継がれてきましたが、明治から昭和にかけての茶道四天王の一人とされた実業家の松永安左ヱ門翁が譲り受け、堺市に寄贈されました。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,観光案内,運航日記 — kc-sakai 11:14 AM  Comments (0)

世界文化遺産~百舌鳥古市古墳群~仁徳天皇陵古墳~民のかまど

【自己紹介】
皆様、はじめまして。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永と申します。

ガイドでは水上でしか味わえない爽やかな風と共に四季折々の景色と名所のコラボレーションをお楽しみ頂きながら地上とはひと味もふた味も違う特別な堺の魅力を、ブログでは堺の歴史・文化・観光地・伝統産業品・グルメ・イベントを、一人でも多くの方に一つでも多くの事を発信して参りたいと思いますので何卒宜しくお願い申し上げます。

初回は【世界文化遺産~百舌鳥古市古墳群~仁徳天皇陵古墳~民のかまど】について~ 諸説あり ~

令和元年(2019)7月6日、令和初!大阪初!百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産に登録されました。
登録は、堺市の百舌鳥エリア23基及び羽曳野市・藤井寺市の古市エリア26基の計49基が対象となりました。
その49基のうち、堺市の百舌鳥エリアにある仁徳天皇陵古墳は、日本最大の前方後円墳、エジプトのクフ王のピラミッド・中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界三大墳墓の一つなのです。
およそ5世紀頃から1日約2,000人延べ約680万人の作業員数で約15年の年月をかけ、現在の価格で約800億円の総工費で築造されたといわれてます。
実際の被葬者は明らかではありませんが、宮内庁により百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)として、第16代仁徳天皇[皇居・宮殿は大阪市にある難波高津宮(なにわのたかつのみや)]の陵墓に治定されてます。
その仁徳天皇の逸話の一つ「民のかまど」は、ご即位後に高台より国を見渡されたところ、民家より煙が出ていないことで民衆が炊事ができないほど貧しいとお気付きになられ、3年間の税を免除されました。
税を免除されたことにより朝廷の収入はありませんので、衣服は新調されず食料も自給自足、また、茅葦屋根が破れ雨漏り、、、という状態から3年後、再び高台より国を見渡されたところ、民家より煙が出ていて、仁徳天皇は皇后に「高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどは賑わいにけり、私は豊かになり、喜ばしいこと、国とは民が根本であり、その民が豊かであれば私も豊かということ」とお話しされました。
仁徳天皇は、更に3年間の税を免除され、6年後は沢山の民家より煙が出ていて民衆は豊かに暮らしたといわれてます。
この「民のかまど」という逸話と共に仁徳天皇陵古墳をはじめとする百舌鳥古市古墳群が後世に受け継がれるよう、堺のんびりクルーズのガイドとして語り継いで参りたいと思います。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,観光案内,運航日記 — kc-sakai 11:57 AM  Comments (0)

堺の環濠3

豊臣秀吉はあまり裕福でない半農半士の家に生まれました。
右手の親指が生まれつき2本あって、当時、世間体を気にする家柄であれば出生してすぐ手術したそうです。

しかし裕福でない家だったせいか放ったらかしだったんでしょうね^_^

天下人として出世する中、手のことは周りも遠慮があったのか、記録にはあまり残ってませんが、

織田信長の秀吉への呼び名「六つめ」だったり
あまり秀吉のことを好きでなかったルイスフロイスの母国宛の手紙、
旧友の前田利家の書簡などには記載されています。

秀吉は再婚した母親の新しい父親とソリが合わず家を飛び出し、縫針の行商をしながら放浪へ。
このとき2000名規模の傭兵軍団の頭領「蜂須賀小六」と出会っています。
秀吉が人たらしで商才に優れていた人物であったのは間違いないでしょう。
織田信長が本能寺で斃れたあと、豊臣秀吉がその実権を握り天下を統一しますが、

晩年は秀頼を授かって以降、政策の評判はよくありませんでした。

有名な秀吉の辞世の句

「露となり、露と消えにし
我が身かな
浪速のことは夢のまた夢」
があります。

露のように生まれ、露のように消える自分。
大阪での栄華は夢を見てるようであったなぁ、、

どんなに波乱万丈、大出世しようとも人生って儚いものなんですかね( ̄ー ̄)

豊臣秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった徳川家康が江戸幕府を開きました。

幕府は全国のインフラなど街道の整備を進めていきます。世の中が落ち着いてきたところで

最後は莫大な財産をもつ「豊臣家」の解体に着手します。そんな中で幕府と
一戦を交える空気は高まり1614年11月、太閤秀吉の恩義を受けた大名、幕府の政策に不満をもつ者、浪人など

いろんな思惑で反幕勢力などが大坂城に集まり戦争準備をします。
そして12月戦闘が始まります。のちに冬の陣と呼ばれる戦いです。

真田幸村らの大活躍で優勢だった豊臣方ですがそのあとの協議で幕府側と和睦をむすび

大阪城の外堀を埋める約束がそのまま内堀も埋められ、門や櫓も破壊されてしまいます。
そして1615年4月、夏の陣に突入していきます。
この月に豊臣方大野道犬が徳川方の武器支援、兵站の役を果たしていた堺の町に火を放ちます。

堺の町は2万軒の寺社、家屋が焼けてしまいます。
怒涛の進撃で真田幸村、後藤又兵衛などの活躍で徳川家康を切腹の覚悟を2回させるくらいまで追い詰めますが

5月、主力の真田幸村など戦死、大坂城は落城して応仁の乱から150年続いた戦国時代に終止符がうたれました。

堺に火を放った大野道犬は6月、堺の王子が飢(現在の大阪刑務所あたり)で火あぶりの処刑になります。
お墓は刑場から明治に入って堺の月蔵寺に移されています。

月蔵寺の立派な土塀は、大阪夏の陣で焼かれた家屋の瓦が塗り込められています。

戦が終わって堺には長崎の奉行が堺に異動してきました。そして町の復興責任者である

風間六右衛門が着任します。

~この続きはまた今度~

↓月蔵寺の門と土塀


Filed under: 堺のお話,観光案内,運航日記 — kc-sakai 7:05 PM  Comments (0)

堺の環濠2

応永の乱は1399年(応永6年)10月13日、堺にて挙兵した大内義弘氏が
同11月21日幕府側の総攻撃により討ち死に、戦は収まりました。

大内義弘氏は減っていく手勢のなか、奮闘しますが最後の側近が討ち死にするとひとり敵陣のなかで

「天下無双の名将大内義弘入道、討取って将軍のお目にするがよい」

の大声を最後に討取られたとあります。

謀反のため大内氏は6つあった国のうち4つを没収されて弱体化しますが、
その後また盛り返して「西国一の戦国大名」と言われるまでに復活します。
大内家が滅んだのは応永の乱から200年ほどあとの1557年です。

さて防衛のため築いた「堺城」とその町並みは戦火に焼かれ、堺のまちは環濠を残し
焦土と化しました。
今でも2メートルほど掘るとその焦土層が出てくる場所があるそうです。

戦争により灰になった堺ですがもともと「遣隋船」「遣唐船」の進発港としての海上ルートと
新たに中国を模範にした律令制に基づいた律令国の「摂津国」「河内国」「和泉国」のさかい目という
「日本経済の要衝」という立地で復活はダメージの割に早かったと思われます。
灰になった堺が回復する大きなきっかけは応永の乱から5年ほどして誕生した「遣明船」です。

やはり住吉の浜から進発しました。

西暦600年ころから始まった遣隋使、遣唐使は、船のコンパスというものが無かったため、
出航したら中国大陸の方角に向い「だいたいこっちやろ?」で航海していました。。
船体の建造技術や天気予報の技術も今ほど進んではないので船で大陸まで行くのはかなり命がけです。
しかも船は「だいたい」の場所に着くわけで、大陸に到着してから目的地を探すという第二の難関がありました。
それに中国の皇帝や目的の人物に会えるまでもひと苦労です。
なんせ船で雨風にさらされて揺られて、挙句に目的地を探しながら徒歩の長旅でヨレヨレなった

見知らぬ一行に「皇帝に会いたいのですが~」と言われてもねー。

遣隋使、遣唐使のおもな目的は中国の政治手法や文化、文明、技術、宗教などを学んで日本に持ち帰ることが
目的でしたが遣明船のころはすこし進化しています。

それは
・原始的だが船のコンパスがあった(目的地到着の精度があがった)
・輸入もさることながら刀や鉱物などの輸出を行った。
遣明船が始まってしばらくたった1480年ころには堺の豪商からなる「会合衆」が中心となって

一部自治制を確立しました。

「自分たちのことは自分たちで」という気概は、応永の乱で丸焼けになったつらい経験と
その教訓を背景に高度な自治制、政治性をもって町の防衛体制を築きました。
実際、いくつもの環濠の橋には商人たちでお金を出し合って侍を雇い、見張りをさせていたそうです。
現代風にいうなら「セキュリティ抜群」の町です。

1481年に世間で噂話になったのが
「堺の福の女神が上洛して、京の男の貧乏神が堺に下向した」です^_^

堺の富豪の娘が持参金付きで京の貧乏公家に嫁ぎ、貧乏だが家柄が良い公家の息子が堺の富豪に養子にきた
というわけです。
実際は双方20名ほどの行き来きだったようですが当時の繁栄がよくわかるエピソードです。

1500年半ばぐらいからポルトガル人が日本に来るようになって、福岡、長崎、平戸が開港すると
そこにもいち早く堺商人は商業活動を行います。
また鉄砲は輸入だけにとどまらず豪商の今井宗久氏を中心に堺ブランドの鉄砲を製造する生産ラインを整えました。
そしてまもなく織田信長は堺の町を直轄地にします。

堺の商人たちは東南アジアなどに海外渡航も活発におこない堺の町は自治都市、国際都市として繁栄をきわめます。

しかし織田信長が本能寺で斃れ豊臣秀吉に時代が変わってしまいます。

まもなく天下統一を果たした秀吉は堺に対して厳しい統制政策をとり、環壕は埋められ堺商人の多くを大阪城近辺に移します。

いまの堺筋です。

そうして堺は自由都市としての機能が低下、弱体します。

ところが秀吉の亡き後3年後、1600年(慶長5年)徳川家康を中心とする東軍、豊臣方石田三成率いる西軍が関ヶ原で激突します。

そして徳川家康の東軍が勝ち征夷大将軍となって幕府を開きます。
そのときに堺は幕府の直轄領になりました。

この続きはまた今度( ̄▽ ̄)

↓灯台の窓より(横向きですみませんね)

Filed under: 堺のお話,観光案内,運航日記 — kc-sakai 12:54 AM  Comments (0)

遊覧船ガイドのお話の稽古③日本最古の私鉄の話

むかし南海本線堺駅東側ロータリーに吾妻橋すてんしょ
(ステーションと停車場を組み合わせた呼び方)がありました。
1872年明治5年に日本初の官営鉄道が新橋~横浜間で開通しました。
1877年の西南の役で政府が財政難となり、それから半官半民の形で鉄道が増えてきました。
堺のシンボルである大浜の灯台もこの年にほぼ民間の資金で誕生しています。
日本で初めての純資本民営鉄道は1884年設立の大阪堺間鉄道、
今の南海電気鉄道で、当時の発起人19名のうち12名が堺の人です。
豆を使って人や荷車の通行量を計算して、「これは採算が取れる」ということで事業化が決定したそうです。
1885年に難波~大和川北岸が開通。
しかしまだまだ鉄道の認知度は低く「鉄道」とは火を噴く恐ろしいものであり、
人力車の稼業を邪魔するものという誤解もあり、工事を人力車の会社が人夫を使って妨害する事件があったりと、すんなりいかなかったようです。
大和川の橋梁工事では洪水や、イギリスから取り寄せた鋼材を積んだ船が暴風で遅延など大変な苦労の末、3年後の
1888年に難波~吾妻橋間が開通しました。
その後1903年には吾妻橋~和歌山開通となり、
1907年には難波~浜寺公園まで電化が完成。住之江に発電所があったそうです。このとき鉄道車両では日本初の扇風機が搭載されています。
1936年にはこれまた鉄道車両では日本初の冷房車が誕生しています。(現ダイキン製)
当時ダイキンは起業したばかりのベンチャー企業で、23度で冷房が切れるなど斬新な機能が搭載されていたようです。
新聞にも取り上げられて大盛況だったのですが、混雑して車内は暑かったようです。
また戦時中の「贅沢は国の敵」という風潮もあり1年で姿を消しました。
吾妻橋という地名ですが1790年から20年かけて堺旧港の修復工事で大変功績がある東京浅草の商人「吉川俵右衛門」という方が住んでいた所。
東京→東(あづま)の人の住まいということで吾妻橋(あづまばし)となりました( ̄▽ ̄)
Filed under: 堺のお話,観光案内,運航日記 — kc-sakai 12:14 PM  Comments (0)

2017 6/18sunの運航報告です^ ^

170618sun 本日の運航報告です。天気は少し雲ったりしましたが、大方は陽が差す暑い一日でした。11,12,13,14,15時発の5便全便を運航し34名の方に乗船して頂きました。
川面のゴミも殆ど無く、透明度は2〜3mで川底まで見え、クラゲが結構おりました。ほぼ海ですからね^ ^
14時便をマンツーマンで案内させて頂いた女性は下船時に会社の同僚(新採)と判りびっくり^^; 環濠に関わる仕事の為、勉強に来た様です^_^
連絡事項は特に無いですが、黒鞄を整理して頂いたので随分軽くなりました。金庫を軽量化しもっと小さな鞄カバンにすると更に持ち易く、運び易くなりそうです。何方か不要の軽い金庫と鞄はありませんか^ ^?
スタッフは船長に真宮・香川、受付に森・久保・中本、ガイドに細野・西河。
此れから何時もの初芝千寿の湯で2日分のアルコールを抜いて来ます。
以上、報告は堺河川ボランティアの西河嗣郎でした^_^

Filed under: 運航日記 — kc-sakai 6:45 PM  Comments (0)

5月14日(日)運航報告

本日は天候にも恵まれ、快晴のもと5便すべて出船し58名の方にご乗船頂きました。

スタッフ(敬称略)は、石田、柴、松尾、天満、小林、宗和の6名でした。

 

【重要!】エンジンについて

13日の班長から聞いていた情報として、運航時から冷却水の排水に勢いが無く、フ

ルスロットルでの回航時に、一瞬煙が出た(十分な冷却が出来ず、エンジンが熱を帯

びたものと思われます)との事でしたので、本日は平均中速航行で走らせたり、桟橋

帰港時毎回排水口を清掃するなどして凌ぎました。

最終出島回航後に大浜ドック若林さんに相談して状態を見て頂くと、やはり水に勢い

が無いとのコメントでしたので、メーカーに聞いて頂ける(即時電話して頂きました

が、着信せず)との事で本件お預け致しました。

 

その際それとは別件で若林さんから重大なご指摘を頂きました。

プロペラの破損状態が酷いため、直ちにプロペラを交換すべきとの事でしたので、そ

の場でプロペラの取り寄せと交換を発注させて頂きました。

次週運航時までに新品に交換出来ているとの事です。

 

因みに3枚のプロペラ面積が削れてバラバラになると、振動が激しくなって偏った回

転がエンジンシャフトを破損し、最悪エンジン交換という莫大な費用が生じる可能性

があるとの事でした。

 

私も気を付けようと思いますが、船体を当てないように上手く操船する事よりも、ペ

ラを当てない事の方が重要で、神経を使うべきである事を再認識致します。

Filed under: 運航日記 — kc-sakai 9:08 PM  Comments (0)

5月7日(日)運航

今日はゴールデンウィーク最終、絶好のクルーズ日和となりました。

川沿いの鯉のぼりも気持ちよく泳ぎ、ご乗船頂いた86名のお客さんも、

きっとご満足いただけたかとおもいます。

また、子どもの日クルーズということもあり、27名のこどもさんが、

乗船してくださいました。ありがとうございました。

Filed under: 運航日記 — kc-sakai 12:25 PM  Comments (0)
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