堺の環濠6(最終回)

1945年8月、日本の無条件降伏により戦争は終結、日本はすっかり灰になってしまいました。

戦後復興を進めながら、日本政府は所得倍増計画を含む「高度経済成長政策」を掲げます。

地方の若者を企業がまとめて雇用する「集団就職」と戦争中に進化した「官民一体の技術力」で

飛躍的な経済発展に繋げるというものでした。

堺では1953年(昭和33年)堺臨海工業地帯の埋め立てが始まりました。

かつて阪堺電車の車窓から見えたネギやミツバの田園と風車の景色は姿を消しました。
万葉集にも詠まれた堺から高石にかけた白砂青松の海岸も埋め立てられてしまいました。

あまりの急な変わりように
「子どもの溺死が減って交通事故死が増えた」という言葉があったそうです。

かわりに大手の石油会社、製鉄会社、電力会社の施設が出現しました。

当時の堺臨海工業地帯の石油消費量は大阪府全体の消費量の半分を超えていました。

当然、深刻な公害の問題が起きます。

埋め立ての拡張によりたくさんの漁業従事者が廃業や移転に追い込まれました。

大阪湾は瀬戸内海、紀伊水道と繋がる大きな湾です。

波、風も比較的穏やかで淀川、大和川、石津川から流れこむ栄養豊富な海水によって

美味しい魚介類が育ちます。

イワシが有名で四国、九州のほうからきた群れが紀伊水道を通って

大阪湾の豊富な栄養でまるまると育ちます。

しかし工場排水、生活排水で大阪湾の汚染が進み、タコやカキからは

基準を超えるカドミウムが検出されます。
カドミウムは「イタイイタイ病」を引き起こし、腎臓に

深刻なダメージを与える物質です。

たちまち大阪湾の魚介類は食べれないというイメージが拡がります。

また大和川の水質汚染はとくに酷く、メタンガス、硫化水素、アンモニアガスの

含有量が国の基準の5〜90倍(時期によります)。
そのままでは水道原水として利用できるレベルでは無くなりました。

「日本一汚い一級河川」というワードは私が小学生の時に聞きました

(ちなみに1965年生まれです)。

また煙突からは猛毒の物質が大量に吐き出され、
1970年の調査では慢性気管支炎の患者数が堺、大阪、四日市、川崎、尼崎のなかでは

1番多い14人に1人という恐ろしい数字が残っています。
畑のほうれん草が一夜にして枯れた事例もありました。

また戦後復興の資材確保と、好景気による地価高騰で宅地開発のため

古墳や須恵器などの遺跡を壊し始めました。

「仁徳天皇陵」など宮内庁が管理している古墳は無事ですが、

かつて100基以上あったとされる百舌鳥古墳群の古墳は現在44基にまで減っています。

いまや「世界遺産」の文化財が、たった6〜70年ほど前には国土開発によって

あっさり取り壊されていたという考えられない事実です。

また「大阪万博」で阪神高速堺線を延伸工事の際に、堺の東側南北の環壕を

用地買収の手間が省けるという理由で埋められてしまいます。

1963年(昭和38年)自然や文化財などを喪失した大きな犠牲のかわりに日本は国内総生産世界2位になりました。
敗戦から23年後のことです。
生活も便利になり自動車、冷蔵庫、テレビ、洗濯機が普及し、女性の社会進出もすすみました。

堺の環壕もすっかりゴミ箱のような姿になりました。

環壕の側にある学校は窓を開けて授業できないぐらい臭いが酷く、神辺橋のすぐそばの

「月洲中学校」は昭和53年にはすでにエアコンが装備されていました。

この中学校出身者である
高杉と植木が自前のカヌーで清掃活動を始めたのが現在の

観濠クルーズsakaiのルーツです。

行政も
「人が集える川に戻そう」
という目標を立てて川を綺麗にする工事が始まります。

復旧工事は20年という長い時間がかかりました。

現在〜
岸壁にはフジツボ、ムール貝、岩ガキ、イソギンチャク、

カニ、フナムシなどが賑やかに住んでいます。
魚はチヌ、スズキ、ハゼ、サヨリ、ボラ、コトヒキなど^_^
また世界遺産「仁徳天皇陵」の濠の「カメ」も流入しています。

ウミガメではありません^_^
それらを狙ってサギ、カルガモ、鵜などがいます。

堺の海、環壕、大和川も汚染が酷かった自分の少年時代に比べてそれは

それは見違えるくらい美しくなりました。
しかし今でも同年代から年上の人達の中には、汚染が酷かった頃の「景色」と「臭い」が

脳にこびりついているため、大阪湾の魚介類に対する「不安」を持つ方は多いと思います。

2019年11月、土居川の住吉橋あたりで鰯の大群約10万匹が現れたニュースが朝日新聞に

紹介されました。

確かにこの3年程、環壕の魚影が濃くなっていると実感しています。
今でも堺の海でイワシ漁は盛んで、春木港の船が「巾着漁」という

巻き網漁を盛大に行っています。
環壕の奥まで来たイワシの大群は、かつての経済高度成長の汚染から

かなり回復したことを示すものだと思います。

のんびりクルーズの活動主旨である

「水辺の環境の大切さのPR」
「堺の観光資源の発掘と紹介」

の活動を継続して、次世代に引き継げればと思います。

堺の環壕1〜6はこれにて終演させていただきます。
ご清聴まことにありがとうございました^_^

皆様、良い年をお迎えください
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堺の環濠5

堺の環壕5

江戸幕府は1603年から1867年まで続きました。少なくとも200年は安泰な世の中だったと言えるでしょう。

 

江戸時代は比較的、分けあったり、助け合ったり、人に優しいのんびりした豊かな時代だったとおもいます。

当時、政治の不正問題も時代劇のように頻発してませんし^_^

 

落語の長屋噺で、誰かが鯛を1匹もらってくると何軒かで分けて最後は骨を出汁にする。

味噌、醤油、酒、米など日用品のほとんどツケで買うことが出来て、半年に一度の節季払い^_^

慰安旅行のルーツ、お伊勢参りや東海道の旅も盛んに行われて歌舞伎、落語など新しいエンターテインメントも拡がっていきました。

 

幕末、国際情勢の変化や外圧が高まり、のんびりした武家社会から鎖国か開国かで日本国内はヒートアップ。ついに1867年大政奉還となり翌年明治の世になりました。

急速に日本は近代化、富国強兵の道を進んでいくのは史実の通りです。

 

さて時代は昭和15年(1940年)、

マッチや砂糖の配給が始まりました。お米の配給は成人1人あたり一日2合です。

 

堺の大魚夜市も中止、大浜の水族館も閉鎖となります。また空襲の延焼を防ぐため大道筋拡張でいきなり立ち退き命令が発せられるなど、

「お国のため」「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」の言葉と風潮が幅を効かせて、恐ろしい世の中になっていきます。

反対の声を上げるとたちまち「非国民」の差別をうけて特高警察に目をつけられる。。。

 

近代化した日本が資源を確保するには外国と仲良くするしかないのですが、1932年満州国を建国したことで日本は世界から非難されます。

しかし資源を確保したい日本は軍国主義のもと拡張していき1937年日中戦争へ。

イギリス、アメリカ、ソ連など中国に租借地をもつ国と日本は完全に敵対しました。

そして日本はアメリカから石油の輸入を止められてしまいます。

当時の戦時国際法で軍事干渉してはならないとありましたが、世界の国を巻き込んだ太平洋戦争へと突き進みます。

 

1941年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃。

宣戦布告の対米通告については諸説ありますが、攻撃のあとにアメリカ側に伝わった為、不意打ちの結果になってしまいました。

これがのちにアメリカの沖縄、本土への容赦ない非戦闘員を巻き込んだ空襲と原爆の投下に繋がったという説があります。

 

資源の少ない日本は短期決戦しか選択の余地はありませんので次々に東南アジアを中心に領土の占領を拡げ、皇民化政策を急ぎましたが

1942年、ミッドウェイ、ガダルカナルの戦いで惨敗。日本の劣勢が色濃くなりました。

 

同じ年の1942年、アメリカボーイング社の大型長距離爆撃機「B-29」の試作機が完成します。

 

全幅 43メートル

全長 30メートル

航続距離 6000km

爆弾積載量 7トン

高度 10000メートル可能

 

日本から遥か遠いサイパンで大量の爆弾を積んで出撃攻撃、帰還できる飛行距離が可能で、航空機を打ち落とす為の高射砲は届かない高度で飛ぶ

高性能の最強爆撃機は日本の継戦能力を失くすのに十分な性能でした。

広島、長崎の原爆投下もB-29です。

 

1944年にはB-29は大量生産に移ります。

 

1945年、沖縄では4名に1名が亡くなる攻撃にさらされ、東京、名古屋、大阪、神戸など主要都市が激しい空襲によりたくさんの犠牲者を出しました。

日本の対空戦闘能力は削がれ、高度1500から3000メートルの「絨毯爆撃」はさらに攻撃の精度を上げて防空壕すら無力となります。

 

堺では1945年7月10日夜中から未明にかけて激しい空爆で3000名からの犠牲者が出ました。とくに竜神橋のあたりは凄惨でした。

堺は1945年3月から8月にかけて合計5回空襲を受けました。

 

被災合計

死傷者 2933名

被災家屋 19106件

被災人口 72439名

 

このうち5回目8月には焼夷弾ではなく機銃乱射で2名の非戦闘員が亡くなっています。

 

「堺」は1399年応永の乱、1615年大坂夏の陣、そして1945年太平洋戦争の3度にわたる「戦争」により大きな被害を受けました。

〜この続きはまた今度〜

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三味線体験の巻

 

三味も小唄もみな堺
と歌詞にあるように、三味線、小唄、謡曲の車屋本出版も堺がはじまりです。
今回はクルーズのメンバー5名で三味線の体験をしました。
場所は堺の「つるや楽器」さん。
創業文久2年(1862)の老舗邦楽器専門店です。
ご指導くださったのは若い店主の石村さん。
江戸時代初め(1600年ころ)に「石村近江」という三味線名工が京都にいて
11世まで屋号が続いたそうで、三味線屋さんには「石村」という姓が多いとの
こと。深いなぁ~
三味線は琉球から堺に入ってきたのですが、
琵琶のサイズに合わせて改造したので三線より大きいんだとか。
三味線は決して堅苦しい楽器ではなく、 棹(ギターでいうネック)
は3分割することができて携帯性が高い楽器でカラオケ以前までは
宴会などで盛り上がっていたというポピュラーな楽器です。
課題曲は「さくら」。
※最近はこの曲を知らない若い人がたまにいるとか・・・
というわけで早速稽古に入ります。
①左手の親指と人差し指の根元に指すりというものを装着。
②胴(ボディ)からおなかは握りこぶし一つ分空けます。
③姿勢は棹の先端が下がらないようにして
肩のあたりで高さをキープするように意識します。
④撥の握り方は小指と薬指に挟んで撥が回らないようにします。
三味線は初心者用に印が打ってありますので、そこを押さえて
撥を弦に当てます。弦高も低いので指も痛くありません。
「ビーン」 お!鳴った、ぐらい簡単に音がでました。
三味線用の譜面も簡単で三本の線に抑える位置の番号が
記載されています。
ギター経験者の3名はほぼすぐに「さくら」が弾けました。
三味線は右利き用しか存在しないので左利きのメンバーは
ちょっと苦労しておりましたがほぼ1時間ぐらいで
みんな「さくら」を弾けるようになりました。
一息ついて美味しいお茶をよばれながら
店主さんが「津軽じょんがら節」を、たまたまお店に来てた方が
珍しい「妙国寺節」をご披露、メンバー一同は大感激です!
お店は気軽であたたかい楽しい空間というのも意外ですねー。
メンバー全員「三味線めっちゃ楽しい~」という感想でした。
艪で和船をすすめながら、三味線の小唄で「屋形船」なんてのも
企画しましょうかねー。!
これだけの体験がなんと「500円」!楽しいこと間違いありません。
※体験は要予約になります。
つるや楽器
〒590-0954
大阪府堺市堺区大町東3-1-6
電話 072-232-0521

 

 

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堺の環濠4

1615年(元和元年)、大坂の陣の後、堺の町を再興すべく人事移動がありました。
長崎から堺奉行として長谷川藤広氏が、そして町の区画整理責任者に風間六右衛門氏が着任しました。

長崎の奉行が着任したのは、堺と同じ「国際都市」の行政キャリアがあったからだと思います。

環壕復活と町の区画整理が始まりました。 
のちに、年号をとって「元和の町割」と呼ばれています。
環壕は一回り大きく盤の目の縦横の道が敷かれます。

今の堺の町の原型です^_^

町割については長谷川奉行も風間六右衛門氏も細心をはらっていたようです。

寺社や商家も多い堺は、いろいろな権力者が人脈を使って己の立地を有利に持っていこうとする働きが水面下で活発します。。

なかには囲碁のルートで家康公と接触を図る人もいたぐらいだったとか。

当時堺には、かつて京都で起こった宗派争いで堺に日蓮宗のお寺がたくさん引っ越ししていました。

今も堺は日蓮宗のお寺がたくさんあります。

六右衛門さんは日蓮宗の信仰深い人で、真面目な性格と言われており、その権力者たちの賄賂や

根回しを避けていたのではないでしょうか。
それが面白くない権力者たちは「風間六右衛門は日蓮宗の敷地を優遇している」と幕府にクレームを入れます。

1618年8月、そのクレームの件で幕府から呼び出しがあり江戸に来るよう命じられます。

六右衛門さんは江戸に行くと言い遺し環壕から出たすぐ北側にて切腹いたしました。

いろんな圧力で疲れ果てていたと考えられています。

しかし町割はそのまま残り、今もその面影が残っています。

【大坂夏の陣と南宗寺】
さて、少し話は戻りますが
大坂の陣が終結した翌年の1616年4月、徳川家康は駿府のお城で亡くなりました。享年75歳。
死因は「徳川実記」の内容から胃癌だったようです。

しかし堺の南宗寺の伝説では、、、
1615年5月夏の陣の茶臼山の戦いで「後藤又兵衛」が馬上から家康の乗った駕籠を屋根から槍で突き刺します。が駕籠の中を確認する間もなく徳川陣が退却。
しかしこれが致命傷となり家康が亡くなります。
家康死亡の噂が広まると再び世の中が乱れてしまうという判断で極秘に南宗寺境内で埋葬した、、と。

ただ茶臼山の攻撃は5月8日です。
堺に火を放ったのは4月28日。
南宗寺はすでに焼失していますし、後藤又兵衛は茶臼山の戦いではすでに戦死したあとなので時期が合わない。
焼けた南宗寺跡にとりあえず埋葬したのか、また別のところで保管しておいて町割が完成したのち現在の南宗寺にお墓を移したものなのかはわかりません。

火を放たれるまえの南宗寺は現在の場所から少し北の位置にありました。

現在の南宗寺は夏の陣から4年後、1619年沢庵和尚によって再興されました。
ちなみに大根を使った漬物の「たくわん」はこの和尚さんが考えたという説があります。
( ̄▽ ̄)

南宗寺には伝説を納得させる部分があります。

①葵の紋の瓦がある
②南宗寺の北へ伸びる道はかつて「権現通り」と呼ばれていた。徳川家康公亡き後、朝廷から「東照大権現」の神号をもらっています
③2代目将軍徳川秀忠と3代目将軍徳川家光が夏の陣から数年後に南宗寺をお参りに来ている。
④多くの「だんじり」には大坂の陣をテーマにした彫物が多くみられ、

なかには徳川家康が討たれそうになる場面や後藤又兵衛の跳ね槍の場面がある。
⑤空襲までは南宗寺境内に東照宮があった。

また松下幸之助氏の名前など列記した「徳川家康の墓」の碑があります。

私が勤めていた劇場で「水戸黄門」のお芝居がありました。当時水戸光圀役が西村晃さんでした。
その事務所の社長さんは元松下電器の宣伝出身の方で
「♫明るいナショナル〜」のCMフレーズを考えた人です。
碑について尋ねると「ん〜、水戸黄門のスポンサーが松下電器だからかも」
とのことでした^_^

大坂の陣は、関ヶ原の戦いの失業者がいろんな思惑で大坂城に集まった戦いです。
この戦に参加してもメリットがないはずの真田幸村、後藤又兵衛らは

「徳川の世で細々と生きていくなら一戦交えて散ろう」と命を懸けたのでしょう。

その捨て身の活躍が兵数、武器がはるかに上回る幕府と善戦したことが150年続いた戦国時代という大舞台の

大トリとなって、後々まで芝居や彫り物になるなど伝説化したのだと思います。

大阪は豊臣贔屓とよく言われますが、堺は秀吉によって環壕を埋められ秀頼によって燃やされています。

しかし徳川家は堺を幕府直轄領にして環壕、町割により蘇っております。

 

 

 

Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 10:11 AM  Comments (0)

堺の環濠3

豊臣秀吉はあまり裕福でない半農半士の家に生まれました。
右手の親指が生まれつき2本あって、当時、世間体を気にする家柄であれば出生してすぐ手術したそうです。

しかし裕福でない家だったせいか放ったらかしだったんでしょうね^_^

天下人として出世する中、手のことは周りも遠慮があったのか、記録にはあまり残ってませんが、

織田信長の秀吉への呼び名「六つめ」だったり
あまり秀吉のことを好きでなかったルイスフロイスの母国宛の手紙、
旧友の前田利家の書簡などには記載されています。

秀吉は再婚した母親の新しい父親とソリが合わず家を飛び出し、縫針の行商をしながら放浪へ。
このとき2000名規模の傭兵軍団の頭領「蜂須賀小六」と出会っています。
秀吉が人たらしで商才に優れていた人物であったのは間違いないでしょう。
織田信長が本能寺で斃れたあと、豊臣秀吉がその実権を握り天下を統一しますが、

晩年は秀頼を授かって以降、政策の評判はよくありませんでした。

有名な秀吉の辞世の句

「露となり、露と消えにし
我が身かな
浪速のことは夢のまた夢」
があります。

露のように生まれ、露のように消える自分。
大阪での栄華は夢を見てるようであったなぁ、、

どんなに波乱万丈、大出世しようとも人生って儚いものなんですかね( ̄ー ̄)

豊臣秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった徳川家康が江戸幕府を開きました。

幕府は全国のインフラなど街道の整備を進めていきます。世の中が落ち着いてきたところで

最後は莫大な財産をもつ「豊臣家」の解体に着手します。そんな中で幕府と
一戦を交える空気は高まり1614年11月、太閤秀吉の恩義を受けた大名、幕府の政策に不満をもつ者、浪人など

いろんな思惑で反幕勢力などが大坂城に集まり戦争準備をします。
そして12月戦闘が始まります。のちに冬の陣と呼ばれる戦いです。

真田幸村らの大活躍で優勢だった豊臣方ですがそのあとの協議で幕府側と和睦をむすび

大阪城の外堀を埋める約束がそのまま内堀も埋められ、門や櫓も破壊されてしまいます。
そして1615年4月、夏の陣に突入していきます。
この月に豊臣方大野道犬が徳川方の武器支援、兵站の役を果たしていた堺の町に火を放ちます。

堺の町は2万軒の寺社、家屋が焼けてしまいます。
怒涛の進撃で真田幸村、後藤又兵衛などの活躍で徳川家康を切腹の覚悟を2回させるくらいまで追い詰めますが

5月、主力の真田幸村など戦死、大坂城は落城して応仁の乱から150年続いた戦国時代に終止符がうたれました。

堺に火を放った大野道犬は6月、堺の王子が飢(現在の大阪刑務所あたり)で火あぶりの処刑になります。
お墓は刑場から明治に入って堺の月蔵寺に移されています。

月蔵寺の立派な土塀は、大阪夏の陣で焼かれた家屋の瓦が塗り込められています。

戦が終わって堺には長崎の奉行が堺に異動してきました。そして町の復興責任者である

風間六右衛門が着任します。

~この続きはまた今度~

↓月蔵寺の門と土塀


Filed under: 堺のお話,観光案内,運航日記 — kc-sakai 7:05 PM  Comments (0)

堺の環濠2

応永の乱は1399年(応永6年)10月13日、堺にて挙兵した大内義弘氏が
同11月21日幕府側の総攻撃により討ち死に、戦は収まりました。

大内義弘氏は減っていく手勢のなか、奮闘しますが最後の側近が討ち死にするとひとり敵陣のなかで

「天下無双の名将大内義弘入道、討取って将軍のお目にするがよい」

の大声を最後に討取られたとあります。

謀反のため大内氏は6つあった国のうち4つを没収されて弱体化しますが、
その後また盛り返して「西国一の戦国大名」と言われるまでに復活します。
大内家が滅んだのは応永の乱から200年ほどあとの1557年です。

さて防衛のため築いた「堺城」とその町並みは戦火に焼かれ、堺のまちは環濠を残し
焦土と化しました。
今でも2メートルほど掘るとその焦土層が出てくる場所があるそうです。

戦争により灰になった堺ですがもともと「遣隋船」「遣唐船」の進発港としての海上ルートと
新たに中国を模範にした律令制に基づいた律令国の「摂津国」「河内国」「和泉国」のさかい目という
「日本経済の要衝」という立地で復活はダメージの割に早かったと思われます。
灰になった堺が回復する大きなきっかけは応永の乱から5年ほどして誕生した「遣明船」です。

やはり住吉の浜から進発しました。

西暦600年ころから始まった遣隋使、遣唐使は、船のコンパスというものが無かったため、
出航したら中国大陸の方角に向い「だいたいこっちやろ?」で航海していました。。
船体の建造技術や天気予報の技術も今ほど進んではないので船で大陸まで行くのはかなり命がけです。
しかも船は「だいたい」の場所に着くわけで、大陸に到着してから目的地を探すという第二の難関がありました。
それに中国の皇帝や目的の人物に会えるまでもひと苦労です。
なんせ船で雨風にさらされて揺られて、挙句に目的地を探しながら徒歩の長旅でヨレヨレなった

見知らぬ一行に「皇帝に会いたいのですが~」と言われてもねー。

遣隋使、遣唐使のおもな目的は中国の政治手法や文化、文明、技術、宗教などを学んで日本に持ち帰ることが
目的でしたが遣明船のころはすこし進化しています。

それは
・原始的だが船のコンパスがあった(目的地到着の精度があがった)
・輸入もさることながら刀や鉱物などの輸出を行った。
遣明船が始まってしばらくたった1480年ころには堺の豪商からなる「会合衆」が中心となって

一部自治制を確立しました。

「自分たちのことは自分たちで」という気概は、応永の乱で丸焼けになったつらい経験と
その教訓を背景に高度な自治制、政治性をもって町の防衛体制を築きました。
実際、いくつもの環濠の橋には商人たちでお金を出し合って侍を雇い、見張りをさせていたそうです。
現代風にいうなら「セキュリティ抜群」の町です。

1481年に世間で噂話になったのが
「堺の福の女神が上洛して、京の男の貧乏神が堺に下向した」です^_^

堺の富豪の娘が持参金付きで京の貧乏公家に嫁ぎ、貧乏だが家柄が良い公家の息子が堺の富豪に養子にきた
というわけです。
実際は双方20名ほどの行き来きだったようですが当時の繁栄がよくわかるエピソードです。

1500年半ばぐらいからポルトガル人が日本に来るようになって、福岡、長崎、平戸が開港すると
そこにもいち早く堺商人は商業活動を行います。
また鉄砲は輸入だけにとどまらず豪商の今井宗久氏を中心に堺ブランドの鉄砲を製造する生産ラインを整えました。
そしてまもなく織田信長は堺の町を直轄地にします。

堺の商人たちは東南アジアなどに海外渡航も活発におこない堺の町は自治都市、国際都市として繁栄をきわめます。

しかし織田信長が本能寺で斃れ豊臣秀吉に時代が変わってしまいます。

まもなく天下統一を果たした秀吉は堺に対して厳しい統制政策をとり、環壕は埋められ堺商人の多くを大阪城近辺に移します。

いまの堺筋です。

そうして堺は自由都市としての機能が低下、弱体します。

ところが秀吉の亡き後3年後、1600年(慶長5年)徳川家康を中心とする東軍、豊臣方石田三成率いる西軍が関ヶ原で激突します。

そして徳川家康の東軍が勝ち征夷大将軍となって幕府を開きます。
そのときに堺は幕府の直轄領になりました。

この続きはまた今度( ̄▽ ̄)

↓灯台の窓より(横向きですみませんね)

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堺にゆかりのある二代目中村富十郎のはなし

前回「三味線」は堺の発祥であることと小唄の元祖「高三隆達」について触れましたので今回は歌舞伎について^_^
歌舞伎の人気が一般大衆に定着したころの1786年、大阪で中村富十郎が生まれました。子どものころから役者を始めて3代目中村歌右衛門に弟子入りします。メキメキと女形として実力、人気を兼ね備え上方、江戸の舞台に多く出演、2代目中村富十郎の名前を継ぎます。
常に大入り満員超人気者の中村富十郎は難波に当時住んでいましたので「難波の太夫」と呼ばれていたとか。
しかし天保の改革により状況が一変します。
幕府の決まりで役者は①家屋田畑を所有してはいけない②羽織袴を芝居以外では着てはいけないなどなど「贅沢禁止令」がありました。それに触れているとみなされます。要は役者ごときが贅沢するなという決まりだったようです。富十郎の難波の自宅は2600坪の豪邸で茶室が3つもあり使用人20名を抱えていたといいます。財産没収のうえ摂河泉三カ国追放(摂津、河内、和泉)となります。当時は島流しの次に厳しい処罰だったそうです。江戸の7代目市川團十郎も同じく江戸十里四方追放の処罰が下ります。それから中村富十郎は堺へやってきます。
堺は大和川の付け替え後なので和泉の国に位置していましたが堺奉行の支配下のため追放範囲に含まれませんでした。そして現在の南海堺駅南口から高架下をさらに南へ行ったあたりのところに住んでいました。富十郎は小間物屋を起業してたいそう繁盛したそうなのですが、周りの支援者から役者としての復活を熱望されて京都、伊勢、名古屋、江戸などへ巡業に出たりしました。その後、徳川家斉の死去によって市川團十郎は江戸十里四方追放を特赦されますが中村富十郎はゆるされないまま70歳で生涯を終えました。
現在、元住居跡は偶然にも大衆演劇の羅い舞座になっています。
ちょっと前に「利休にたずねよ」という映画がありました。武野紹鴎役に12代目市川團十郎さん、千利休役は市川海老蔵さんが親子で演じて評判になりました。
團十郎さんはそれが遺作になってしまいましたが来年は市川海老蔵が来年「13代目市川團十郎白猿襲名」の発表がありましたね^_^
昭和60年(1985年)、歌舞伎界が盛りあがる出来事がありました。それは当時市川海老蔵から12代目市川團十郎を襲名した時です。
團十郎の名跡が復活するのは約30年ぶりということもあり、その熱狂ぶりは襲名披露公演の劇場に勤めていた私(当時20歳)はよく覚えています^_^襲名披露公演で市川團十郎演じる「勧進帳」が豪快な荒事歌舞伎で、別の演目では六代目中村歌右衛門(人間国宝)が「沓手鳥孤城落月」で淀君の複雑な心境を和事歌舞伎ならではの表現をしていました。古い資料では1714年、4代目市川團十郎と初代中村歌右衛門が共演していた記録がありますので、この両者の組み合わせは300年の歴史があったんですね〜。
歌舞伎が興ったのは1600年ころ「かぶき踊り」が発祥と言われています。派手な格好をして常識を逸脱してる人間を傾き者(かぶきもの)と呼んでたようですが、彼らが茶屋遊びをするという行為をエロティックな表現で踊ったのがかぶき踊りだったようです。お茶屋を中心に拡がりそれから時間を経て発展して荒事、和事の歌舞伎が元禄時代(1688年~1704年)に確立しました。
荒事歌舞伎は幕府ができて全国からいろんな人々が集まって勢いがあった江戸で誕生しています。初代市川團十郎らが中心となって確立、メイクも衣装もド派手です。かたや和事歌舞伎はすでに商業の街が確立していた上方で、男女の関係や遊女との色恋といった艶っぽい演目が多かった。こちらは坂田藤十郎が中心となり確立したといわれています。
そのころから三都(大阪、京都、東京)をはじめ芝居小屋があちらこちらにできました。定芝居と宮地芝居という2種類の芝居小屋があって定芝居は常にある劇場、宮地芝居は公演巡業に都度つくられた劇場というイメージでしょうか。 堺にも大きなところでは1000名以上収容できた芝居小屋があったようです。

 

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堺の環濠1

室町幕府の体質は「有力守護大名のあつまり」の色が強く幕府の権力は弱かったみたいです。
その幕府の権力を 三代目将軍足利義満 は強化しようとします。
堺、和泉国、紀伊国(堺から和歌山県あたり)を治めていた大名は周防国、長門国(だいたい山口県)から豊前(北九州あたり)を治めていた大内氏25代当主「大内義弘」です。
大内氏は、朝鮮との交易で強大な富を築いていました。
大内義弘は将軍の命令により堺、和泉国、和泉国、紀伊国を治めていた山名氏を打ち破り、南北朝の和睦の功績が認められその3つの国を与えられます。
しかし6つの国を持つようになった巨大な守護大名「大内義弘」に対して
皮肉なことに足利義満は
「あいつちかごろ生意気やなぁ~」となりついに戦になってしまします。
仲が良すぎて仲が悪くなったんですかね・・
これを1399年応永の乱といいます。
その時に堺のぐるりに攻撃の足場を1800ヶ所、見張り台を48ヶ所を備えた環濠が誕生します。
そして周防国あたりからも船の応援を呼び寄せ、協力関係にあった勢力とあわせて応戦します。
一時優勢だった大内方でしたが堺が火攻めで劣勢になり、ついに大内義弘はこの堺で落命しました。
お墓は山口県の 瑠璃光寺にあります。
瑠璃光寺は大内義弘が建立したお寺です。
京都の醍醐寺、奈良の法隆寺、山口の瑠璃光寺は日本の三大五重塔といわれておりすべて国宝に指定されています。
これをきっかけに応仁の乱、戦国時代に突入しますが、ごの環濠は商業用の水路として、そしてこの町をまもる濠として堺の発展に大きくかかわってきます・・・
続きはまた今度mm

↓大内義弘氏が建立した堺の「妙光寺」

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遊覧船ガイドの話の稽古⑥「すみよっさん」の話

チンチン電車「宿院駅」からフェニックス通り沿いを東へちょっと進むと「大鳥大社住吉大社両頓宮」と書かれた神社があります。
「頓宮」とは神様がちょっと休憩する場所という意味です。
毎年7月終わりになると大鳥大社の神様が来たり、住吉大社から神様を乗せた神輿の行列が大和川を越えてここで神事が行われます。

この時は堺もお祭り騒ぎで大魚夜市が立ったり花火があがったり賑やかになります。

住吉大社は海の神様です。
なので私も船長当番の日に「とんぐう」へ立ち寄って少しのお賽銭で安全第一を祈願いたします^_^

住吉の神様、通称「すみよっさん」の起源は古く、イザナギが海で「禊」をした際に海面で「ウワツツ」海中で「ナカツツ」海底で「ソコツツ」という3柱の神様が生まれました。この3柱まとめて「住吉大神」とよびます。そのあとの禊でアマテラス、ツクヨミ、スサノオが生まれてるので伊勢神宮、出雲大社の神様よりチト先輩ということになりますかね^_^

余談ですが伊勢神宮はアマテラス、出雲大社はスサノオの末裔のオオクニヌシを祀っています。ツクヨミは月の化身とか夜を管理する神様と考えられています。

住吉大神を現在の住吉大社に祀ったのは神功皇后で西暦211年、1800年ほど前に創建したとあります。神功皇后はヤマトタケルの息子「仲哀天皇」の皇后(もとは正室ではなかったらしい)であり「応神天皇」の母であり「仁徳天皇」の祖母です。仲哀天皇と応神天皇の陵墓は古市古墳群に含まれています。

仁徳天皇の時代、浪速に遷都をして住吉の港(墨江)が開港されて以降、大和政権の重要な外交窓口となります。のち遣唐使の進発港であり、貿易、外交を通じて堺、大阪の大きな発展に繋がっていったことは史実の通りです。

のんびりクルーズのフェニックス号を停泊している出島の港にはたくさんの「住吉丸」の名前の漁船があります。

住吉大社にある600ほどある古い灯籠には「さかい」の漁業関係、問屋さんなど商業関係の寄進のものが多数みられます。
大和川が付け替えられる前は大阪、堺の線引きが今ほどはっきりしてませんでしたから住吉大社は「堺のすみよっさん」とよばれてたほど

堺には馴染深かったようです^_^

すみよっさんは初詣に220万人以上の人で賑わいます。

追記
太鼓橋を渡り境内に入ると
第四本宮が神功皇后
第三本宮がウワツツノオノミコト
第二本宮がナカツツノオノミコト
第一本宮がソコツツノオノミコト

を祀っています。

Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 10:58 AM  Comments (0)

遊覧船ガイドの話の稽古⑤お酒の話

お酒の話
昭和40年代の記憶では「汚いわがまち」がデフォルトになっておりました( ̄ー ̄)
ゴミ箱みたいで悪臭のひどい土居川。
水が真っ黒で一般のゴミやら動物の骨が散乱してる大和川。
そりゃまー汚かったですねー。
でも汚い水環境は戦後の経済成長のスピードに下水整備が追いつかなかったここ70年ほどの話。
じつは明治から大正にかけて堺の製造業で1番盛んだったのは酒造業でした。
阪堺電鉄が南北に走っている「大道筋」の西側から南は石津あたりにかけて個人事業含めて100近い酒蔵があったというので驚きです。
海の沿岸でミネラル豊富の美味しい地下水があったんでしょうねー( ̄▽ ̄)
堺の酒造は室町時代からすでに記録があり、江戸時代には最盛期を迎えて明治時代にかけて6万石(一升瓶600万本相当)の生産高を誇り当時、灘、西宮、伊丹、堺ほか「摂泉十二郷」と呼ばれておりました。1879年(明治12年)堺の酒造家の鳥井駒吉さんが中心となって堺酒造組合を設立、酒蔵の火災保険会社、精米会社、酒造改良試験所など設立、醸造技術を進化させました。そして1887年(明治20年)共同醸造場を設立しコスト削減を実現。また酒容器では初めて瓶詰めで商品化して1888年(明治21年)バルセロナ万博に出展、それから日本酒はアメリカ、ロシア、朝鮮、ハワイ、台湾、沖縄などに輸出されるようになり外貨獲得で大いに貢献いたしました。
しかし、、1887年(明治20年)あたりから良質な水が不足するようになり仕込水を灘、西宮に頼ることが増えてきました。
また建物が密集している堺では酒造のための土地拡張が難しい。そのためどんどん酒蔵は灘へ引っ越し、95あった酒蔵が20ほどになります。
戦時中、酒造の制限もあって一つの会社にまとめられますが、のこった 酒蔵も空襲でかなりの被害がでました。
そして1966年(昭和41年)ついに堺のすべての酒造業は灘に移されて消滅しました。
灘で作られていた堺の銘柄「金露」、「都菊」も後の神戸の震災で被災、なくなってしまいました。
しかし近年、地酒復活に情熱を注いだ堺泉酒造さんが たいへんな苦労の末、2014年に「千利休」を蔵出ししています。いまも「フェニックス堺」の気概が受け継がれています^_^
Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 10:26 AM  Comments (0)
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