内田裕也

挨拶コーナー】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

色鮮やかに咲く紫陽花が雨に映え、晴れ間の青空に心が和む今日この頃、いつもブログコーナーをご高覧いただきましてありがとうございます。
夏の到来を迎え、蒸し暑い日が続いておりますので、お身体ご自愛下さいませ。

【内田裕也】諸説あり
内田裕也
ミュージシャン
昭和十四〜平成三一年(1939〜2019)

兵庫県西宮市に生まれ、大阪府堺市で育ちました。
堺市立大美野小学校を卒業し堺市立三国丘中学校へ入学、やがて清教学園中学校に転入し生徒会副会長を務めます。
そして、大阪市立旭陽中学校へ転入しラグビー部に入部、スポーツや勉強を熱心に取り組みました。

やがて、大阪府立旭高等学校へ入学し野球部に入部しますがエルヴィス・プレスリーに憧れ退学、大阪府立三国丘高等学校に転校し、卒業後は日本大学法学部の夜学へ、しばらくして中退しました。

まもなく、バンドボーイとして音楽生活をスタートさせ、佐川満男とともにバンドボーイ兼ボーカルとしてロカビリー・バンドのブルー・キャップスを結成し大手芸能事務所に所属、同年には音楽フェスティバル「日劇ウエスタンカーニバル」へ初出場します。

次第にロックを強めた活動に転換し、1966年6月のビートルズ日本公演では、尾藤イサオとのツインボーカル、バックにジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズを従えた特別編成のバンドでウェルカム・ビートルズなど数曲を演奏し、前座を務めました。

このようにして、ロックンロール人生の幕が開いていきます・・・
やがて日本のロックのトップとなり牽引、そして数々の名言と伝説エピソードが残されます。
それでは、振り返ってみましょう。

〈名言〉
1:俺がロック一筋で通せたのはヒット曲がなかったから
2:俺は占い師じゃないけど、目を見てたら嘘ついてるかどうか分かるからな
3:ロックンロールに定義はないんだけど、僕はアートの中で一番カッコいいジャンル

〈伝説エピソード〉
1:大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」で活動していたザ・タイガースをスカウトしたといわれています
2:飲食店で和田アキ子と先輩論について喧嘩になりそうになったといわれています
3:「ロックンロール」という決め台詞は、前座を務めたビートルズのメンバー、ジョン・レノンが志半ばでお亡くなりになられたため彼の分もという思いがあるといわれています

圧倒的な存在感でロックンロールを貫き通した人生は、決め台詞とともに多くの方に元気を与えてくれました。
だからこそ、また決め台詞を聞いて元気を与えて欲しいと思うときがあるのです・・・「ロックンロール!」と。

以上、「内田裕也」でした。
最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

*[尾藤イサオ]
百面相や形態模写を得意とした寄席芸人の父と芸人の母に生まれ、中学校時代にエルヴィス・プレスリーに興味を持つ
曲芸師・鏡味小鉄の内弟子となり鏡味鉄太郎を名乗り、太神楽の曲芸師として活躍する
「悲しき願い」が大ヒットし、アニメ「あしたのジョー」の主題歌を担当して人気を集める

*[ジャッキー吉川]
小中学校時代を八王子市で過ごし、高校時代はジーン・クルーパへの憧れから独学でドラムを始める
歌手を希望していたが、高校2年生の時に先輩のブルー・コメッツのリーダー大橋道二の紹介でバンドのバンドボーイとなる
ドラムの演奏技術を磨き続け、ブルー・コメッツの正式メンバーとなり、やがて中心的存在となる
かつて、水泳選手として全国大会で入賞した実力を持っている

【レッツ!トライ!内田裕也クイズコーナー〈難問度:★★★★★〉】
中学校時代に○○機に関する発明コンクールで見事優勝をしました。
さて、この○○に入るのは次のうちどれでしょうか?
1、掃除
2、空気清浄
3、洗濯
正解は、、、次回のブログで発表しますので皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 「宗」の由来クイズ〜正解発表〜 】
令和五年(2023)4月18日のブログ[宗の由来]で出題したクイズの正解は「3、一休さん」です。

【クルーズのオススメグッズ紹介コーナー】
[商品名]古墳キーホルダー
[価格]一個400円(税込)
本日のオススメグッズは、「古墳キーホルダー」です。
古墳ファンなら1つや2つ、お持ちの方もおられるとか?おられないとか?といわれているほど人気が高いグッズです。
ぜひ一度、お手にお取り下さいませ。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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【「宗」の由来】〜諸説あり〜

【挨拶コーナー】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
今年も桜が美しく咲き誇り、笑顔や勇気を与えてくれました。
遡ること晴天の桜満開日、大人の遠足と題して朝早く起きお弁当を作り大仙公園でお花見をして参りました。
幸せなひとときを過ごせたお礼と来年も強く逞しく咲き誇りますようお祈りをして、名残り惜しくその場をあとに致しました。
暑い日も寒い日も乗り越えて今年も咲いてくれた桜に「ありがとう」を伝え・・・

【「宗」の由来】〜諸説あり〜

茜屋宗佐,今井宗久,塩屋宗悦,千宗易(千利休)津田宗及,紅屋宗陽,山上宗二、以上の堺会合衆のメンバーにおいて共通しているのは・・・
偶然なのか?必然なのか?
名前に「宗」がついているというところです。

財力があり、大きな商売を手広く営んでいた商人は「豪商」と呼ばれていました。
その豪商は、同時に「茶人」も多くいたといわれています。
茶道において、師から奥義を全て教えられた弟子につける名前を「茶名」といい、この茶名に「宗」がつくということはイコール茶人であるということになりました。

例えば先に述べたメンバーより、茜屋宗佐は茶人として活動する傍ら輸入雑貨商として活躍していたり、今井宗久は天下一の商人にして天下三宗匠といわれていたり、津田宗及は豪商で蘭奢待を与えられた茶人として活躍していたり、「豪商」であると同時に「茶人」としても活躍していました。
いわば、今で言う「二刀流」ということなのかもしれません。

しかし、この茶名に「宗」が用いられ始めたのは、いつからなのでしょうか?
それは、室町時代の茶人・村田珠光(むらたじゅこう)の後継者・村田宗珠(むらたそうしゅ)が大徳寺より「宗」の一字を授けられたことに遡るといわれています。

村田珠光は、侘び茶の創始者といわれ茶の湯に禅の精神を加え精神的な深みの漂う作法を創り出し、「不完全な美」を唱えました。
茶人と同時に僧といわれ、実子がなく興福寺尊教院で雑務を行う弟子の村田宗珠を養子に迎えます。

村田宗珠は、村田珠光の養子となり後継者として侘び茶の発展に寄与し「市中の山居」を確立させました。
やがて、侘び茶に新風を吹き込んだ確立者として、当時の語録に評された記録が残されています。

つまり、「宗」の由来は・・・
村田宗珠が大徳寺より「宗」の一字を授けられ、それ以来家元から指南を許されると「宗」の字をつけられるようになった、ということでした。

以上、「宗」の由来でした。
最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【レッツ!トライ!「宗」の由来クイズコーナー〈難問度:★★★★★〉】
「宗」の由来は、村田宗珠が大徳寺より「宗」の一字を授けられたことに遡りました。
その大徳寺は、京都にある有数の規模を誇る禅宗寺院で、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、○○○○をはじめとする名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深いといわれています。
さて、この○○○○に入るのは次のうち誰でしょうか?
1、清少納言
2、小野妹子
3、一休さん
正解は、、、次回のブログで発表しますので皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 華岡青洲・鹿城兄弟クイズ〜正解発表〜 】
令和五年(2023)2月13日のブログ[華岡青洲・鹿城兄弟]で出題したクイズの正解は「1、緒方洪庵」です。

【クルーズの見たい!聞きたい!知りたい!情報コーナー】
本年度は、4月1日(土)より運航を開始しております。
多くのお客様にご乗船いただいておりますこと、この場をお借り致しまして、感謝申し上げます。
お一人・ご友人・パートナー・ご家族、様々なシチュエーションでご利用下さいませ。
皆様のひとときに華を添えられるよう、努めて参りたいと思います。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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【華岡青洲・鹿城兄弟〜そして少林寺〜】諸説あり

【挨拶コーナー】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
立春を迎え、煮物や天麩羅でいただく春野菜がとても美味しい季節となりました。
皆様にとりまして、幸多き今春になりますようお祈り申し上げます。
さて、ブログコーナーを手軽に!身近に!合間に!チェックしていただけますよう、一人でも多くの方に一つでも多くの事を発信出来ますよう務めて参りたいと思いますので、引き続き宜しくお願い申し上げます。

【華岡青洲・鹿城兄弟〜そして少林寺〜】諸説あり
兄・華岡青洲(はなおかせいしゅう)
医師
宝暦十年〜天保六年(1760〜1835)

弟・華岡鹿城(はなおかろくじょう)
医師
安永八年〜文政十年(1779〜1827)

「北岡南岡に譲らず」といわれた兄弟がいました。
北岡は弟・華岡鹿城を、南岡は兄・華岡青洲のことを指しているといわれています。

兄・青洲は、和歌山県紀の川市で代々医術を家業とし南蛮流外科術を身に付けた父・直道と美しく憧れられていた母・於継の長男として生まれました。
地元の方から厚く信頼を寄せられていた父の姿に感銘を受け、医師を志し京都へ遊学します。
やがて、和歌山へ帰郷し跡を継ぎ開業してまもなく父が亡くなり、京都への遊学を支援するため織物や薬草栽培をして支援してくれていた優しい妹・於勝が乳癌で亡くなります。
「手術さえ出来ていれば妹の命を救えたかもしれない」という悔しい思いや「麻酔薬が無い手術には耐え難い痛みや苦しみを伴うため、手術における患者の痛みや苦しみを和らげたい」という思いから、寝る間も惜しんで研究を重ね、いつどんなときも傍で支え続けてくれた妻・加恵と想いを一つにし、ついに麻酔薬「通仙散(つうせんさん)」を開発しました。
そして、世界で初めて全身麻酔を用いた乳癌手術を成功させます。
やがて、全国から手術を希望する者や入門を希望する者が殺到し、門下生の育成にも力を注げるよう、住居兼病院及び医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設け、1000人を超える門下生を育てました。
さらに、春林軒の分塾「合水堂(がっすいどう)」を中之島に設けます。
治療に加え薬の調合や発明、医塾での医学教育、また術式の考案や手術器具の考案改良を行い、「医聖」と称されました。
患者に寄り添い続け、深い悲しみと向き合いながら家族の献身的な支えのもと、情熱を注ぎ続けたからこそ、世界の医学史に残る偉大な功績を残せたのかもしれません。

弟・鹿城は、和歌山県紀の川市で父・直道と母・於継の四男として生まれました。
20歳離れた兄・青洲に倣い17歳で京都へ遊学します。
「気血水説」を唱えた吉益南涯(よしますなんがい)に古医方を、「阿波志」を完成させた佐野山陰(さのさんいん)に儒学を学び、和歌山へ帰郷しました。
そして、華岡流外科術を身に付けた後に兄が設けた医塾「春林軒」に従事します。
やがて、春林軒の分塾として中之島に設けた「合水堂」を任され、治療や指導に尽力したといわれています。
手術は兄を凌ぐほどと言われ、その技術は高く評価されました。
「より多くの命を救いたい」という想いと共に今もなおその名が刻まれています。

そして!そして?そして!?華岡青洲・鹿城兄弟と堺の関係です。
その関係とは、文化八年(1811)に兄・青洲の意を受け、弟・鹿城はある地で診療所を開設するのですが、、、
その診療所を開設した地というのが・・・堺の少林寺なのでした。

以上、「華岡青洲・鹿城兄弟〜そして少林寺〜」でした。
最後までありがとうございました。
また、本年も船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【レッツ!トライ!華岡青洲・鹿城兄弟クイズコーナー〈難問度:★★★★★〉】
当時、華岡青洲のライバル的存在といわれていた人物は次のうち誰でしょうか?
1、緒方洪庵
2、北条義時
3、渋沢栄一
正解は、、、次回のブログで発表しますので皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 堺会合衆の10人クイズ〜正解発表〜 】
令和四年(2022)12月13日のブログ[堺会合衆の10人]で出題したクイズの正解は「1、36人」です。
*36人説について(諸説あり)
3人1組で一ヶ月間にわたり政務を担当していたことにより一年で36人になったといわれています。

【クルーズの見たい!聞きたい!知りたい!情報コーナー】
堺のんびりクルーズでは、現在ボランティアスタッフを募集しております。
知れば知るほど虜になる堺を観濠クルーズでしかご覧頂けない特別な景色のもと、地上とはまたひと味もふた味も違う堺の魅力を一人でも多くの方に一つでも多くの事を一緒に発信してみませんか?
ぜひ、お気軽にお問合せ下さいませ。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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堺会合衆の10人

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
「もういくつ寝るとお〜正〜月〜♪」ということで今年も残すところあとわずかとなりました。
今年もブログをご高覧いただきまして、誠にありがとうございました。
来年も皆様により良いブログをお届けして参りたいと思いますので、引き続き宜しくお願い申し上げます。
皆様が良いお年をお迎えになられますよう、心よりお祈り申し上げます。

今回は「堺会合衆の10人」について・・・

【堺会合衆の10人】〜諸説あり〜
「この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と、弘治2年(1556)に堺の様子を見た宣教師のガスパル・ヴィレラが、ある書簡に記しました。
執政官というのは、堺会合衆を指しているといわれています。
この「堺会合衆」とは、室町時代から安土桃山時代に堺の豪商や町衆のリーダーで構成された組織です。
メンバーは、茜屋宗佐,油屋常琢,今井宗久,塩屋宗悦,千利休,高三隆達,津田宗及,紅屋宗陽,松江隆仙,山上宗二の10人といわれています。
この10人は一体どのような人物だったのか、1人ずつ紐解いて参りましょう。

・[茜屋宗佐(あかねやそうさ)]茶人・商人
天王寺屋会記に名がみえる茶人
武野紹鴎より茶の湯を学び、茶人として活動する傍ら輸入雑貨商として活躍しました。
また、鶴首茶入れや柿形茶入れなどをはじめとする多くの名物茶器を所有していたといわれています。

・[油屋常琢(あぶらやじょうたく)]豪商
徳川家康の伊賀ルートを手助けした豪商
本姓は伊達といい、油屋という薬師問屋を営んでいたことから油屋と呼ばれ、油屋肩衝などをはじめとする多くの名物茶器を所有していたといわれています。
また、堺に建立されていた妙国寺を完成させました。
本能寺の変が起きた際、徳川家康はこの妙国寺に宿泊し、油屋常琢の接待を受け、三河への脱出を手助けされたといわれています。

・[今井宗久(いまいそうきゅう)]商人・茶人
天下一の商人にして天下三宗匠
大和国高市郡今井村に生まれ、立身出世を志し南蛮貿易で活気溢れる堺へ出たといわれています。
商人として修業を重ねると同時に教養を身に付けるため、武野紹鴎より茶の湯を学び、やがて鉄砲や火薬製造にも携わり、堺での立場を確立しました。
織田信長の天下統一を側面から支え、総合軍事産業の事業家として巨万の富を築き、一代で天下一の商人となりました。

・[塩屋宗悦(しおやそうえつ)]茶人
多くの名物茶器を所有していた茶人
武野紹鴎より茶の湯を学び、茶人として活動し、天文23年(1554)以降、毎年茶会を催していたといわれています。
また、天正元年(1573)11月23日に織田信長が妙覚寺で催した茶会に津田宗及や松江隆仙と共に招かれ、汁・刺身・茶碗をのせた三の膳まで用意され、手厚くもてなされました。

・[千利休(せんのりきゅう)]茶人・商人
侘び茶を大成させた天下一の茶人
堺で塩魚を扱う商人ないし、その商人たちに倉庫を貸す「問」といわれている家業の跡取りとして、品位や教養を身に付けるため、武野紹鴎より茶の湯を学びました。
やがて、武将が次々と千利休に弟子入りし、後に利休七哲という優れた高弟が生まれ、侘び茶を大成させました。
また、北野大茶会の茶頭を務めるなど、天下一の茶人として名声が世に広まりました。
しかし、豊臣秀吉により自害に追い込まれ、切腹という壮絶な最期を遂げました。

・[高三隆達(たかさぶりゅうたつ)]僧・小歌隆達節創始者
堺が生んだ天才シンガーソングライター
堺で薬種問屋を営む末子として生まれ、跡取りではないため日蓮宗顕本寺の僧となりました。
しかし、兄の没後に還俗し家業を補佐します。
その傍ら、連歌・声曲・書画などに優れていたことから作詞作曲を行うと独特な声調の隆達節が大ヒットし、500首以上の歌が誕生しました。
また、「堺流書道」の達人として豊臣秀吉にも召し出されたといわれ、多彩な才能を発揮しました。

・[津田宗及(つだそうぎゅう)]商人・茶人
蘭奢待を与えられた茶人
堺南荘の豪商で茶人としても活躍していた父・宗達より茶の湯を学びました。
やがて、織田信長の茶頭の一人となり、千利休や今井宗久と共に「天下三宗匠」と呼ばれました。
また、天正2年(1574)に堺会合衆の10人が織田信長に招かれた相国寺茶会では、津田宗及と千利休が織田信長から蘭奢待を与えられたといわれています。
そして、天正6年(1578)に織田信長が堺を来訪した際は、自邸に訪問を受けるなど重用されていたエピソードも残されています。

・[紅屋宗陽(べにやそうよう)]商人・茶人
堺会合衆の中でもトップクラスの存在
武野紹鴎より茶の湯を学び、度々茶会を催したといわれています。
しかし、織田信長が各地の勢力に将軍への忠誠を示すため大義名分をつけ、堺へは2万貫(現在の価格にして約20~30億円)を課しますが、紅屋宗陽はこれを拒否します。
しかし、今井宗久の説得により要求を受け入れる方針に変更したことを機に織田信長との関係を深めました。
ところが、天正11年(1583)に豊臣秀吉の怒りを買い、追放以上の刑に処せられた者の領地や財産を没収される闕所(けっしょ)処分を受け、所有していた茶器を没収され、以後消息がわからなくなったといわれています。

・[松江隆仙(まつえりゅうせん)]商人
織田信長に手厚くもてなされた商人
天正元年(1573)に織田信長が妙覚寺で催した茶会に塩屋宗悦や津田宗及と共に招かれました。
織田信長より手厚くもてなされたといわれているこの茶会、床には日本の水墨画に大きな影響を与えた牧谿(もっけい)の「洞庭秋月(どうていしゅうげつ)」の絵、そして斎藤道三と縁のある京の茶人・不住庵梅雪(ふじゅうあんばいせつ)が茶頭を務め、贅を尽くした茶会といわれています。

・[山上宗二(やまのうえそうじ)]茶人
千利休の一番弟子
堺の薩摩屋という商家に生まれ、堺の南の山上に住んでいたことからその地名をとったといわれています。
豪商で茶人としても活躍していた父・宗壁の背中を見ながら、幼少期より高価な茶器や名具に携わり、茶の湯に徐々に興味を示します。
そして、後に師となる千利休と出会い、茶人としての活動をスタートさせました。
千利休の一番弟子といわれ、茶人として「堺にての上手にて物をもしり人におさるる事なき」と評価されていました。
一方、「口悪きものにて人のにくしみものなり」といわれていた山上宗二は、やがて豊臣秀吉の怒りを買い、惨殺される最期を遂げ、46年の人生に幕を降ろしました。

以上、「鎌倉殿の13人」ならぬ「堺会合衆の10人」でした。
最後までありがとうございました。
また、来年も船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【レッツ!トライ!堺会合衆の10人クイズコーナー〈難問度:★★★〉】
堺会合衆が構成されていた人数について10人という説ともう一つ説があるといわれていますが、それは次のうちどれでしょうか?
1、36人
2、54人
3、72人
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【曽呂利新左衛門クイズ〜正解発表〜】
令和四年(2022)10月4日のブログ[曽呂利新左衛門]で出題したクイズの正解は「3、作庭」です。

【クルーズのオススメグッズ紹介コーナー】
[商品名]堺クリアファイル
[価格]一枚400円(税込)
*百舌鳥古墳群バージョンは欠品中
本日のオススメグッズは、「堺クリアファイル」です。
表面は堺を代表する4つの図や写真、裏面には堺の書道家・永田峰亭先生の「堺」書と英文での堺の説明文がプリントされていて、堺ファンにはたまらない逸品です。
愛用しているスタッフも多く、お土産用にもご自分用にもお使いいただけます。
ぜひ一度、お手にお取り下さいませ。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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曽呂利新左衛門〜豊臣秀吉を天下取りへ導いた落語家の始祖〜

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

暑さ寒さも彼岸までと申しますが、ひと雨ごとに秋が深まり涼しくなって参りました。
皆様におかれましては、お身体にお気を付けて実り多き秋をお過ごしになられますよう、お祈り申し上げます。

今回は【曽呂利新左衛門】について~諸説あり〜

「何でも好きな褒美をやる」と言われたら何が欲しいですか?
時間?自由?それとも・・・紙袋一枚分のお米?

本姓は杉本氏、名は新左衛門のほか甚右衛門や彦右衛門といい、剃髪後は坂内宗拾(さかうちそうじゅう)と号した曽呂利新左衛門は、堺で刀の鞘を作る鞘師として活躍し、天下一の名人といわれていたほど、極めて巧みな腕前でした。
作られた鞘は、刀が塩梅に収まりソロリと抜けることから「ソロリの新左衛門」と呼ばれ、この名がついたといわれています。

歌道や香道に通じ、絵画・揮毫においてもその多彩な才能を発揮し、茶道は千利休の師でもあった武野紹鷗より学びました。
やがて、豊臣秀吉に御伽衆として仕えます。
この御伽衆というのは、室町時代後期から江戸時代初期にかけて将軍や大名の側近に侍して、相談や雑談に加えて自己経験談に応じたり、書物の内容や語句の意味を説明したりする職業です。
大名・将軍・儒僧・堺の茶人や町人などから仕えた御伽衆を最も多く召し抱えたのは、豊臣秀吉といわれ、その数はなんと800人以上にのぼりました。
その中で、曽呂利新左衛門はユーモアなセンスで御伽衆の中でもトップクラスに上り詰めました。
そんなある日のこと、曽呂利新左衛門は豊臣秀吉よりお呼びがかかります。

・豊臣秀吉「いつの日も楽しませてくれているゆえ、何でも好きな褒美をやるが、何か欲しいものはあるか?」

・曽呂利新左衛門「それでは、有り難きお言葉に甘えて、紙袋一枚分のお米を分けて戴きたいのですがよろしいですか?」

・豊臣秀吉「なんだ、紙袋一枚分でよいのか?」

・曽呂利新左衛門「はい、紙袋一枚分で結構でございます」

しかし、この約束を交わした日から数日間、曽呂利新左衛門は姿を見せませんでした。
すると、心配していた豊臣秀吉の元へ家臣より一報が届きます。
なんと、曽呂利新左衛門は大勢の人を集め、紙を張り合わせて、米蔵が入るほどの大きな紙袋を作っていたのです。
先日交わした「紙袋一枚分の褒美をやる」という約束が頭を過ぎった豊臣秀吉は急いで米蔵へ駆け付けましたが、時は既に遅し、米蔵はその大きな大きな紙袋で包まれていたのでした。
曽呂利新左衛門は満面の笑みを浮かべ、一本取られたと言わんばかりの豊臣秀吉は苦笑いしていたとか、していないとか・・・

つい惹き込まれてしまい、人を楽しませることの難しさを感じさせない多くの逸話は今もなお語り継がれ、愛されています。
堺市堺区市之町東にある屋敷跡には碑が建てられ、同じく堺市堺区にある妙法寺には忌碑が建てられています。
豊臣秀吉を天下取りへ導いた落語家の始祖は、どのような話術で人を楽しませていたのだろうか?と想像を膨らませながら、偲びたいと思います。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

レッツ!トライ!【曽呂利新左衛門クイズ】コーナー〈難問度:★★★〉
日本の各地に曽呂利新左衛門が○○したものが今もなお残されています。
さて、この○○に入るのは次のうちどれでしょうか?
1、建造
2、調理
3、作庭
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 堺市歴史人物クイズ 】~正解発表~
令和四年(2022)7月8日のブログ[堺市歴史人物クイズ]で出題したクイズの正解を発表します。
Q1、千利休(せんのりきゅう)
Q2、与謝野晶子(よさのあきこ)
Q3、曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)
Q4、津田宗及(つだそうぎゅう)
Q5、呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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題名: 堺市歴史人物クイズ

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【堺市歴史人物クイズ】〜諸説あり〜

七夕飾りが街を彩り、夏の足音を感じる日々となりました。
今回は、堺市歴史人物クイズを全5問出題します。
クルーズヒントをご参考に、その人物の名言やエピソードも併せてチェックしながら、ぜひトライして下さいませ。
全問正解して、サッパリ!スッキリ!夏の暑さを吹き飛ばしましょう〜。
それでは、レッツゴー!

Q1、千○○(せんの○○○○)
クルーズヒント:茶人、幼名は田中与四郎、法名は千宗易といい、侘び茶の完成者として天下一の茶聖と称されました。
「幸せになりたいのなら、幸せとの出会いに気づけないのも、幸せとの出会いを幸せに感じられないのも、もったいないでしょう」という名言が残されています。

Q2、与謝野○○(よさの○○○)
クルーズヒント:歌人、本名は与謝野志やう、旧姓は鳳(ほう)といい、雑誌「明星」に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となりました。
「人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい」という名言が残されています。

Q3、○○○新左衛門(○○○しんざえもん)
クルーズヒント:落語家の始祖、本名は杉本新左衛門といい、豊臣秀吉に仕えていた800人以上にのぼる御伽衆の中で最も有名といわれています。
その豊臣秀吉より「世はわしの顔が猿に似ているというがどう思うか」と聞かれ、「猿が殿下を慕い似せたのです」と答えたエピソードが残されています。

Q4、○○宗及(○○そうぎゅう)
クルーズヒント:茶人、名は助五郎、天王寺屋宗及とも呼ばれ、堺会合衆の代表的な存在であったといわれています。
天正6年(1578)に織田信長が堺を来訪した際は自邸に訪問を受けるなど重用されていたエピソードが残されています。

Q5、○○助左衛門(○○○すけざえもん)
クルーズヒント:伝説的貿易商人、本名は納屋助左衛門といい、豊臣秀吉にルソンで仕入れた壺など珍品を献上し、日本屈指の豪商として活躍しました。
その豪邸には、庭園に珍花を植え、居室に七宝をちりばめ、狩野永徳が描いた襖絵を飾るなど贅が極められており、招かれた松永久秀が柱に刀で傷をつけたエピソードが残されています。

正解は、次回のブログで発表しますのでぜひチェックして下さいませ。
最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【 山上宗二クイズ 】~正解発表~
令和四年(2022)4月15日のブログ[山上宗二]で出題したクイズの正解は、、、「3、一期一会」です。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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山上宗二

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【山上宗二】について~諸説あり〜

山上宗二
茶人
天文十三年〜天正十八年(1544〜1590)

美しく咲いた桜が散りゆく晩春、千利休の一番弟子であった山上宗二という茶人が凄惨な最期を遂げました。

山上宗二は、天文十三年(1544)に堺の薩摩屋という商家に生まれました。
堺の南の山上に住んでいたことからその地名をとったといわれています。

豪商で茶人としても活躍していた父・宗壁の背中を見ながら幼少期より高価な茶器や名具に携わり、茶の湯に徐々に興味を示し、後に師となる千利休と出会い、茶人としての活動をスタートさせました。

永禄八年(1565)、21歳になった山上宗二は千利休や今井宗久をはじめとする茶人を4人招き、華々しい茶会デビューを果たします。

天正元年(1573)、足利義昭を京都から追放し、浅井久政や長政に加え三好義継を滅ぼし、機嫌が良い織田信長より京都妙覚寺で催された茶会に招かれ、明智光秀や細川藤孝と親睦を深めました。

この時、今井宗久は53歳、千利休は51歳、山上宗二が29歳であったことから若くしてとんとん拍子に出世したことが見受けられます。
そして、天正九年(1581)、千利休と共に播磨姫路城の豊臣秀吉を訪ねたことを機に交流を深め、茶頭の一人となりました。

茶人として「堺にての上手にて物をもしり人におさるる事なき」と評価されていた一方、「口悪きものにて人のにくしみものなり」といわれていた山上宗二は、歯に衣きせぬ物言いによって人の憎しみを買うことが多かったといわれています。

師である千利休をはじめとする茶人が豊臣秀吉に好かれようとする態度が気に食わなくなり、「わび」の追求に注力するあまり批判とも取れる見解で非難するようになりました。

その態度は次第に激しさを増し、ついに豊臣秀吉の怒りを買い追放処分を受け、加賀の前田利家に仕えます。
しばらくして、許しを得て堺に戻りますが、再び豊臣秀吉の怒りを買い、堺を去り高野山に逃れます。
そして、既に自身の死を予感していたのか、自ら余すことなく書き記した茶の湯の秘伝書「山上宗二記」を高野山に逃れるまでに3人、さらに没年までに10人前後の弟子や大名などへ贈りました。
そして、豊臣秀吉と関係が悪化していた小田原の北条氏のもとに身を寄せ、小田原に来住します。
この来住により、茶の湯文化の勢いに大きな影響を与え、小田原で茶の湯文化が大流行したといわれています。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉は天下統一のため小田原の北条氏を滅ぼす戦いを始め、小田原城を見通せる石垣山城を築き、千利休が主催となる茶会を連日催しました。
千利休は、山上宗二に豊臣秀吉へ謝罪するよう説得し、面会が叶います。

面会が叶い、ようやく豊臣秀吉から再び許しを得て茶頭として再登用を伝えられますが、なんと山上宗二はこれを断りました。
さらに、茶席に仕えていた北条幻庵に義理立てしてしまい、豊臣秀吉から凄まじい怒りを買ってしまいます。
そして、山上宗二は惨殺される最期を遂げ、46年の人生に幕を降ろしました。

豊臣秀吉の怒りの原因について、明確に説明ができる資料は残されていないといわれています。
その道を極めるというのは今も昔も難しいですが、己を貫き通した山上宗二は一流の茶人として、紛れもなく後世に名を残しました。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

レッツ!トライ!【山上宗二クイズ】コーナー

山上宗二が山上宗二記の中に書き記した四字熟語は次のうちどれでしょうか?
1、暗中模索
2、五里霧中
3、一期一会
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【堺市難読地名クイズ(堺区バージョン)】〜正解発表〜
令和四年(2022)1月24日のブログ[堺市難読地名クイズ〜堺区バージョン〜]で出題したクイズの正解を発表します。
(1)遠里小野町=おりおのちょう
(2)錦綾町=きんりょうちょう
(3)百舌鳥夕雲町=もずせきうんちょう
(4)並松町=なみまつちょう
(5)北旅籠町=きたはたごちょう
(6)九間町=くけんちょう
(7)神明町=しんめいちょう
(8)熊野町=くまのちょう
(9)甲斐町=かいのちょう
(10)神南辺町=かんなべちょう

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話 — kc-sakai 10:58 AM  Comments (0)

堺市難読地名クイズ〜堺区バージョン〜

【年始挨拶】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
謹んで新年のお慶びを申し上げます。
皆様にとりまして、幸多き一年になりますようお祈り申し上げますとともに、新型コロナウイルスの一日でも早い終息、また、堺のんびりクルーズの運航再開をお祈り致します。
一人でも多くの方に一つでも多くの事を発信出来ますよう務めて参りたいと思いますので、本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

今回は【堺市難読地名クイズ〜堺区バージョン〜】諸説あり
新年を迎えた初めてのブログは、堺市難読地名クイズ堺区バージョンを全10問出題します。
クルーズヒントをご参考に、ぜひトライして下さいませ。
それでは、レッツゴー!

(1)遠里小野町=○○○○ちょう
クルーズヒント:万葉集では「とほさとをの(とおさとおの)」と詠まれています。
かつては、「ハリのオヌ」,「ウリノ」,「瓜生野(うりうの)」などと呼ばれ、それが訛って「遠里小野=○○○○」に変わったといわれています。

(2)錦綾町=○○○○○ちょう
クルーズヒント:京都より技量の優れた織物師が堺へ移住後に当地で錦織りや綾織りなどをはじめたといわれています。

(3)百舌鳥夕雲町=○○○○○○ちょう
クルーズヒント:慶長から寛文に至る総検地以後に開かれた耕地を新田と呼び、その初めが夕雲開(「万代(もず)新田」)でした。
夕雲開は、幕府代官〈高西夕雲〉という方が新田の開発にあたったといわれています。

(4)並松町=○○○○ちょう
クルーズヒント:寛永年間に街道の両側に松の木が植えられて以来、並松や松中と通称されていたといわれています。

(5)北旅籠町=○○○○○ちょう
クルーズヒント:堺の町の南北の入り口にあたる当地に旅籠があったといわれています。

(6)九間町=○○○ちょう
クルーズヒント:大同元年(806)に弘法大師が唐より帰国された翌年に京都へ行かれる途中、当地に四面九間の堂を建立し布教されたといわれています。

(7)神明町=○○○○ちょう
クルーズヒント:奈良時代初期創建といわれる、神明神社(菅原神社に合祀)が当地にあったといわれています。

(8)熊野町=○○○ちょう
クルーズヒント:湯屋(風呂屋)が当地に多く並んでいたといわれています。

(9)甲斐町=○○○ちょう
クルーズヒント:戦国期からある町名で、神功皇后が当地に甲を納めまつったといわれています。

(10)神南辺町=○○○○ちょう
クルーズヒント:鋳物師の名人から社会福祉に尽力した〈神南辺道心〉という方が当地に住んでいたといわれています。

正解は、次回のブログで発表しますのでぜひチェックして下さいませ。
最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

【さいとう・たかをクイズ】~正解発表~
令和三年(2021)11月1日のブログ[さいとう・たかを]で出題したクイズの正解は、、、「2、6,000部 」です。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,未分類,観光案内 — kc-sakai 5:13 PM  Comments (0)

さいとう・たかを〜革新をもたらした劇画界の代表的人物〜

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【さいとう・たかを】について~諸説あり〜

さいとう・たかを
劇画家
昭和十一年~令和三年(1936~2021)

劇画家さいとう・たかを(齊藤隆夫)先生が9月24日、お亡くなりになられました。
〈ゴルゴ13〉をはじめとする数々のヒット作品を生み出した、さいとう・たかを先生を偲びたいと思います。

5人兄弟の末子として和歌山県和歌山市に生まれ、小学校1年生の2学期に大阪府堺市の福泉(現在の堺市西区山田)に移り住み、母親が女手一つで5人を育てながら理髪店を営んでいたといわれています。
絵を描くことと映画を見ることが好きで、お小遣いが貯まると鳳や堺東にあった映画館へ通いながら、実家の理髪店を手伝いました。
福泉中学校を卒業後は、理容師になるため理容学校で知識や技術を身に付け、姉と実家の理髪店を継ぎ、繁盛したといわれています。
しかし、「絵を描きたい」という気持ちが膨らんでいき、母親から1年間の猶予を許してもらい、朝から夜まで実家の理髪店で働きながら夜中に漫画を描くという生活を続けました。
そして1年後、〈空気男爵〉を完成させ大阪の貸本出版社日の丸文庫に持ち込みました。
ところが、日の丸文庫の社長に等倍の紙に漫画を描いたことを指摘され、更に1年かけて描き直し、1年後に漫画家デビューが決定します。
それ以降、看板漫画家として単行本を次々と発表し、専念するため実家の理髪店を辞めたいと母親に打ち明けました。
すると、「絵を描いて食べていけるわけがない」と母親は激怒してしまい、漫画を嫌うようになりました。
漫画家になることを認めてもらえないまま、まもなくして上京し、漫画仲間との「劇画工房」結成を経て、さいとう・プロダクションを設立しました。
そして、「漫画は一人で描く」という常識を覆し、インターネットがない時代に莫大な資料に基づいて人物・背景・乗り物・武器など得意の分野を描き、その優れた才能を持ち寄ることで優れた作品にするという分業制の態勢を確立しました。
いわば、ライバルをパートナーにするという分業制は、革新をもたらした瞬間でした。
それから、現在の堺市西区山田にあった山田温泉という割烹旅館をモデルにして描いた2冊目の単行本〈幽霊館〉、〈鬼平犯科帳〉、国籍・年齢・本名が全て不明の超一流スナイパーの活躍を描いた〈ゴルゴ13〉、〈台風五郎〉ほか、多くの作品が誕生し時代を超えて愛され続けてきました。
中でも、主人公の名前を福泉中学校の担任の先生の名前から由来したといわれている代表作〈ゴルゴ13〉は、昭和43年(1968)より連載が開始し現在も連載中の長寿漫画として単行本の刊行数が世界一となる201巻、令和3年(2021)3月には累計発行部数が3億部を突破、同年7月には「最も発行巻数が多い単一漫画シリーズ」としてギネス世界記録に認定されました。
徹底したリアリティーで人間を描くからこそ、「その正義とやらはお前たちだけの正義じゃないのか?」や「10%の才能と20%の努力、そして30%の臆病さ、残る40%は運だろうな」など、作品の中の多くの名言が心に刺さりました。
善悪を超越した主人公を生み出し、どんなときもどんなことがあっても大きな心で信念をぶらさず冷静に人間のリアリティーを描き続け、平成15年(2003)に紫綬褒章、平成22年(2010)に旭日小綬章ほか、多くの賞を受賞しました。

平成30年(2018)に連載50年を迎えた〈ゴルゴ13〉は、さいとう・たかを先生のご遺志のもと連載継続が発表されました。
「だが、物語は続く」これからも、いつまでも。

さいとう・たかを先生のご逝去を悼み、心から哀悼の意を表しますとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

レッツ!トライ!【さいとう・たかをクイズ】コーナー
「私の作品が、個人的に思い入れある堺市に、少しでもお役に立てるならば幸いです。」と、平成24年(2012)より堺名誉大使を務めている堺市に協力し、新型コロナウイルス感染拡大防止の啓発ポスターが作成されました。
このポスターが作成された枚数は、次のうちどれでしょうか?
1、3,000部
2、6,000部
3、9,000部
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 ザビエル公園と黄金の日々クイズ 】~正解発表~
令和三年(2021)7月16日のブログ[ザビエル公園と黄金の日々]で出題したクイズの正解は、、、「1、戎公園」です。
大阪で唯一の路面電車・阪堺電気軌道の花田口駅前にある緑溢れた公園です。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 12:00 PM  Comments (0)

ザビエル公園と黄金の日々

皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。

今回は【ザビエル公園と黄金の日々】について~諸説あり
天文十九年(1550)12月、厳しい寒さを耐え抜き、堺を訪問したイエズス会宣教師:フランシスコ・ザビエルは、堺の豪商:日比屋了慶より、手厚いもてなしを受けていました。
日比屋了慶は、堺櫛屋町に構えた当時は珍しい瓦葺き木造3階建ての屋敷を聖堂にあて、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスをはじめとする宣教師の布教活動の拠点として手厚くもてなし、自らも洗礼を受けました。
聖堂にあてた屋敷は「南蛮寺」といわれ、永禄六年(1563)12月には日本で初めてのクリスマスがこの南蛮寺で行われたといわれています。

日比屋了慶の屋敷周辺には、黄金の日々を謳歌し自治都市として栄えていた堺を支えた小西行長や武野紹鴎、今井宗久や千利休の屋敷もありました。
屋敷に茶室を設え、茶人としても著名であった日比屋了慶は、特に千利休と交流を深めました。
また、利休七哲といわれた千利休の七人の高弟の中にキリシタン大名がいたことから、キリスト教が茶道に大きな影響を与えたといわれています。

堺の豪商:日比屋了慶が堺櫛屋町に構え、「南蛮寺」といわれた屋敷は、昭和二四年(1949)にフランシスコ・ザビエルの来航400年を記念した公園が開設され、「ザビエル公園」と命名されました。
日比屋了慶が多くの人を手厚くもてなした屋敷は、約470年という長い年月を経て、現在も多くの人から愛され、春の桜や秋の紅葉が私達を手厚くもてなしてくれています。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。


レッツ!トライ!【ザビエル公園と黄金の日々クイズ】コーナー
ザビエル公園の正式名称は次のうちどれでしょうか?
1、戎公園
2、日比屋公園
3、南蛮寺公園
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【 横山やすしクイズ 】~正解発表~
令和三年(2021)4月18日のブログ[横山やすし]で出題したクイズの正解は、、、「1、自衛隊」です。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

Filed under: 堺のお話,日記,観光案内,運航日記 — kc-sakai 12:05 PM  Comments (0)
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