迷いの介護休暇(第5回)松本敏子さん
4月16日、母と二人、車で堺へもどった。母にとっても、とてもめまぐるしく変わった半月の生活だった。母は家のほんの近くまで帰っても、さっぱりどこにいるかわからない様子でいた。母が丹精しているベランダの植木鉢は水をもえらず、無残な姿になっていた。母は、すぐにベランダにしゃがみ込み、夕飯ができるまでの数時間を花の手入れに費やした。「ご精が出ますね」と声をかけると、「少しずつでいいから、毎日世話をせんと。子どもと一緒やね。」と笑っていた。私は、この母にそうやって育てられたのだと思った。高知の娘の家ではちょこんと椅子に座っていることしかできなかった母が、ここでは、眼をつぶっていても「自分の生活」ができることを感じた。
それから半月間。とにかく母の家を片付けた。ほとんどいらないもので占領されている4畳半のものを整理し、棚を移動し、靴箱を部屋の中へ納めて玄関を広くし、椅子を置けるようにした。大きな本棚一杯の古い本は段ボール箱12個分になり、食器や花器はダンボール10個分にもなった。父が書きためた原稿や、整理していない写真も随分とあった。ほとんど未練なく捨てた。実の娘の特権だとも思った。実の子だからこそできることだと思った。父の日記を初めて読んだ。亡くなったすぐは読むことができなくていた。不正には厳しかった人だが、陰で人を悪く言うことのない父だった。娘婿と肩を並べて出勤した朝の嬉しさを綴ったくだりもあった。娘夫婦がお正月に帰省しても「荷物はあるのに姿がない」という文には笑えた。未整理の写真のほとんどは人から送ってもらったもので、どの写真の父も酔って赤い顔をして笑っていた。日本の隅々まで夫婦二人で旅した生涯はやはり幸せだったのだと思う。
4月なのにまだ肌寒い夜。こたつで写真をより分けながら、母とそんな話をする。何気ない父の性格や癖を思い出しては二人で笑う。 感心するのは、どんなに水を向けても母から父への愚痴は出てこないこと。随分と亭主関白で身勝手に見えた父なのに、母から出てくる言葉は「早く逝きすぎた」ということだけで、夫唱婦随という言葉が似合っている夫婦だった。そんなうちに、母がうたたねし始めた。今年の夏は父の13回忌。母は12年も一人ぼっちで暮らしてきたのだ。(つづく)
(ほーぷレター2013年2月号より)
~松本 敏子さん ご紹介~
ホープの利用者さまのお嬢さまです。高知在住。お母様はひとり暮らしで、介護サービスを利用中。松本さんは、1年間の介護休暇を終え、現在、仕事に復帰。
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