2015年2月25日
代表より
先日、当事者性(当事者であること)について考えさせられる機会があり、マルティン・ニーメラー(ナチス時代のドイツでルター派の牧師を務め、ヒトラー登場時には、ほとんどのドイツ国民と同様に、ナチスを支持した。しかしその後、ナチスによる迫害が教会に及んだのに抗議し、最終的にザクセンハウゼンのホロコースト強制収容所に送られた)が戦後に書いた、次のような詩に触れることになりました。
「最初に彼らが共産主義者を弾圧したとき、私は抗議の声をあげなかった。なぜなら私は、共産主義者ではなかったから。
次に彼らによって社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は抗議の声をあげなかった。なぜなら私は、社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したときも、私は抗議の声をあげなかった。なぜなら私は労働組合員ではなかったから。
やがて彼らが、ユダヤ人たちをどこかへ連れて行ったとき、やはり私は抗議の声をあげなかった。なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。
そして、彼らが私の目の前に来たとき、私のために抗議の声をあげる者は、誰一人として残っていなかった」(森達也『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』(ダイヤモンド社、2013年、p.61))
当事者でなければ声が上げられないことは、決してありません。そのことは、何度でも言っておきたい、と同時に、当事者が声を上げないでどうする? とも思います。世界は、変えられるし、守られるはず。ではそれは誰によって?(代表理事 中村義哉)
(ほーぷレター2015年3月号より)
No comments yet.