地震の教訓を語り継ぐ「擁護璽」

大浜公園に今から166年前の1855年に建てられた「擁護璽」(ヨウゴジ)という大きな石碑があります。

その石碑の裏側には、1854年に東海地震と南海地震が立て続けに起きた時、津波や家、橋の倒壊など多数被害が出ましたが、みんな神社の庭など広いところに避難したので犠牲者が出なかった、というようなことが書かれております。

それは314年前の1707年の東海地震、南海地震のとき(この年に富士山も爆発しています)、家や橋が倒壊して船で逃げようとしたところ津波に飲み込まれて多数の犠牲者が出たという経験が語り継がれていたのでその教訓によって犠牲者が出なかったそうです。

2月13日深夜、東日本大震災の余震と見られる大きな地震がありました。南海地震もいつ起きてもおかしくない状態なので非常時に備えておきたいものです。

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堺会合衆黒幕説から見る本能寺の変

【年始挨拶】
皆様、こんにちは。
〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永です。
謹んで新年のお慶びを申し上げます。

本年も皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げますとともに、新型コロナウイルスの一日でも早い終息、また、堺のんびりクルーズの運航再開をお祈り致します。

一人でも多くの方に一つでも多くの事を発信出来ますよう、務めて参りたいと思いますので、本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

今回は【堺会合衆黒幕説から見る本能寺の変】について~諸説あり~

天正十年(1582)6月2日早朝、堺から約60km離れた距離にある本能寺で明智光秀が主君の織田信長に襲撃した事件「本能寺の変」は、約440年の年月を経た今もなお日本史最大の謎とされています。

明智光秀が織田信長を討つ動機を明らかにした史料や手紙は後難を恐れて隠蔽したとされていること、また、明智光秀の重臣も短期間で討たれたとされていることから、動機を示す資料が極めて少ないため推理や憶測という想像を働かせる余地が大きくなるにつれ、数多くの説が誕生しました。
どの説も未だに定説に至らないとされていますが、その中でも「堺会合衆黒幕説」が誕生した背景や本能寺の変前日に開催された「堺茶会」から見えてくる本能寺の変に渦巻く人間模様に目を向けたいと思います。

本能寺の変前日6月1日雨天、本能寺茶会が開催されました。
主賓は島井宗室、参加者は一条内基・近衛前久・近衛信基・九条兼孝・二条昭実ならびに公家及び寺社や商人の代表など約40名にのぼりました。

この茶会開催に伴い、安土城で保管されている名物茶器など約40種が本能寺大茶会で披露され、歓迎された参加者は美しく珍しい名物茶器を目の前に茶を嗜みました。
ただし、この茶会開催に伴う織田信長の目的は大きく二点ありました。

一点目は、当時の「天下三大名器」の三つのうち、二つを所有している織田信長が、あと一つを所有している博多の商人・茶人でこの茶会の主賓である島井宗室へ事前に商売の保護を条件に献上するよう命じ、あと一つの名器「楢柴」を手に入れることでした。

二点目は、明や朝鮮と貿易を営み巨万の富を築いていたこの島井宗室と親密な関係を築くことで、海外からの輸入ルートをもつ島井宗室をはじめとする博多商人と親密な関係を築くことでした。
ところが、織田信長の強さの一つである鉄砲戦術活用の武器となる鉄砲や弾薬は、堺商人から入手していたため、織田信長が博多商人へ目を向けようとしている事実は、堺の豪商や有力者により構成された組織「堺会合衆」に強く大きな衝撃を与えました。

今井宗久・千利休・津田宗及などから構成されていた堺会合衆の中で、鉄砲の輸入販売を軸に置いていた津田宗及が特に大打撃を受けることが予想されていました。
その津田宗及ならびに千利休をはじめとする一流の堺茶人は、本能寺茶会と同日に開催された「堺茶会」で徳川家康の接待をしていました。

この堺茶会の接待を指示したのが織田信長であること、また、本能寺茶会で博多商人である島井宗室に目を向け親密な関係を築こうとしたとされていたことから、本能寺と堺で開催された重要な茶会を同日開催にしたのは意図的とされています。

さらに、この同日開催という情報を津田宗及ならびに千利休をはじめとする堺会合衆は事前に入手し、明智光秀に伝えたのではないかとされています。
特に、織田信長が博多商人へ目を向けることで大打撃を受けることになる津田宗及は、坂本城において年に二回茶会を開催するなど明智光秀と親密な関係を密かに築いていました。

また、本能寺の変直前に津田宗及と豊臣秀吉が密会していた記録が残されていることなどから、本能寺の変からしばらくの間は疑いの目が向けられていた記録があるといわれています。

このことなどから、黒幕は津田宗及が有力ではないかという説が浮上しました。
また、他説の一つとして織田信長に本能寺茶会を進言した千利休が黒幕という説も浮上しています。
侘び茶を大成させた千利休は、堺出身でした。
強引な方法で出身地である堺を支配しようとしたり、名物狩りをしたりする織田信長を忌み嫌う堺商人の姿を常日頃から目の当たりにし、ヒートアップしていく姿勢や態度に千利休は我慢の限界を感じていました。

そして、織田信長が是が非でも手に入れたいとされていた本能寺茶会の開催に伴う織田信長の目的の一つで冒頭に登場した天下三大名器の一つ「楢柴」で織田信長を引き寄せ、本能寺茶会開催を進言したとされています。
そして、千利休は連歌師である里村紹巴を通じ、明智光秀に暗殺の企てを伝えたといわれています。
このことなどから、黒幕は千利休が有力ではないかという説が浮上しました。

こうして、津田宗及や千利休をはじめとする堺会合衆が黒幕ではないかとされる数多くの説が誕生していますが、今となれば知る術もありません。
「敵は本能寺にあり」と、言う者・言われる者・言わす者、真実はいかに。

最後までありがとうございました。
また、船上にて笑顔で元気にお待ちしております。

レッツ!トライ!【堺会合衆黒幕説から見る本能寺の変クイズ】コーナー
徳川家康の伊賀越えを支援した堺の薬問屋主人である油屋常琢は、三好義賢の寄進で堺に建立された「○○寺」を大規模に改築、また、本能寺の変前日に開催された堺茶会の接待を受け終えた徳川家康が宿泊したともいわれていわれいる○○に入る寺は、次のうちどれでしょうか?
1、妙国寺
2、南宗寺
3、大安寺
正解は、、、次回のブログで発表しますので次回のブログも皆様ぜひチェックして下さいませ。

【今井宗久クイズ】~正解発表~
令和二年(2020)11月22日のブログ[今井宗久]で出題したクイズの正解は、、、「1、黄梅庵 」です。
黄梅庵は、奈良県橿原市今井町の豊田家にありました。
そして、豊田家で今井宗久ゆかりの茶室として代々引き継がれてきましたが、明治から昭和にかけての茶道四天王の一人とされた実業家の松永安左ヱ門翁が譲り受け、堺市に寄贈されました。

〈観濠クルーズSakai堺のんびりクルーズガイド〉松永

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