堺の環濠4

1615年(元和元年)、大坂の陣の後、堺の町を再興すべく人事移動がありました。
長崎から堺奉行として長谷川藤広氏が、そして町の区画整理責任者に風間六右衛門氏が着任しました。

長崎の奉行が着任したのは、堺と同じ「国際都市」の行政キャリアがあったからだと思います。

環壕復活と町の区画整理が始まりました。 
のちに、年号をとって「元和の町割」と呼ばれています。
環壕は一回り大きく盤の目の縦横の道が敷かれます。

今の堺の町の原型です^_^

町割については長谷川奉行も風間六右衛門氏も細心をはらっていたようです。

寺社や商家も多い堺は、いろいろな権力者が人脈を使って己の立地を有利に持っていこうとする働きが水面下で活発します。。

なかには囲碁のルートで家康公と接触を図る人もいたぐらいだったとか。

当時堺には、かつて京都で起こった宗派争いで堺に日蓮宗のお寺がたくさん引っ越ししていました。

今も堺は日蓮宗のお寺がたくさんあります。

六右衛門さんは日蓮宗の信仰深い人で、真面目な性格と言われており、その権力者たちの賄賂や

根回しを避けていたのではないでしょうか。
それが面白くない権力者たちは「風間六右衛門は日蓮宗の敷地を優遇している」と幕府にクレームを入れます。

1618年8月、そのクレームの件で幕府から呼び出しがあり江戸に来るよう命じられます。

六右衛門さんは江戸に行くと言い遺し環壕から出たすぐ北側にて切腹いたしました。

いろんな圧力で疲れ果てていたと考えられています。

しかし町割はそのまま残り、今もその面影が残っています。

【大坂夏の陣と南宗寺】
さて、少し話は戻りますが
大坂の陣が終結した翌年の1616年4月、徳川家康は駿府のお城で亡くなりました。享年75歳。
死因は「徳川実記」の内容から胃癌だったようです。

しかし堺の南宗寺の伝説では、、、
1615年5月夏の陣の茶臼山の戦いで「後藤又兵衛」が馬上から家康の乗った駕籠を屋根から槍で突き刺します。が駕籠の中を確認する間もなく徳川陣が退却。
しかしこれが致命傷となり家康が亡くなります。
家康死亡の噂が広まると再び世の中が乱れてしまうという判断で極秘に南宗寺境内で埋葬した、、と。

ただ茶臼山の攻撃は5月8日です。
堺に火を放ったのは4月28日。
南宗寺はすでに焼失していますし、後藤又兵衛は茶臼山の戦いではすでに戦死したあとなので時期が合わない。
焼けた南宗寺跡にとりあえず埋葬したのか、また別のところで保管しておいて町割が完成したのち現在の南宗寺にお墓を移したものなのかはわかりません。

火を放たれるまえの南宗寺は現在の場所から少し北の位置にありました。

現在の南宗寺は夏の陣から4年後、1619年沢庵和尚によって再興されました。
ちなみに大根を使った漬物の「たくわん」はこの和尚さんが考えたという説があります。
( ̄▽ ̄)

南宗寺には伝説を納得させる部分があります。

①葵の紋の瓦がある
②南宗寺の北へ伸びる道はかつて「権現通り」と呼ばれていた。徳川家康公亡き後、朝廷から「東照大権現」の神号をもらっています
③2代目将軍徳川秀忠と3代目将軍徳川家光が夏の陣から数年後に南宗寺をお参りに来ている。
④多くの「だんじり」には大坂の陣をテーマにした彫物が多くみられ、

なかには徳川家康が討たれそうになる場面や後藤又兵衛の跳ね槍の場面がある。
⑤空襲までは南宗寺境内に東照宮があった。

また松下幸之助氏の名前など列記した「徳川家康の墓」の碑があります。

私が勤めていた劇場で「水戸黄門」のお芝居がありました。当時水戸光圀役が西村晃さんでした。
その事務所の社長さんは元松下電器の宣伝出身の方で
「♫明るいナショナル〜」のCMフレーズを考えた人です。
碑について尋ねると「ん〜、水戸黄門のスポンサーが松下電器だからかも」
とのことでした^_^

大坂の陣は、関ヶ原の戦いの失業者がいろんな思惑で大坂城に集まった戦いです。
この戦に参加してもメリットがないはずの真田幸村、後藤又兵衛らは

「徳川の世で細々と生きていくなら一戦交えて散ろう」と命を懸けたのでしょう。

その捨て身の活躍が兵数、武器がはるかに上回る幕府と善戦したことが150年続いた戦国時代という大舞台の

大トリとなって、後々まで芝居や彫り物になるなど伝説化したのだと思います。

大阪は豊臣贔屓とよく言われますが、堺は秀吉によって環壕を埋められ秀頼によって燃やされています。

しかし徳川家は堺を幕府直轄領にして環壕、町割により蘇っております。

 

 

 

Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 10:11 AM  Comments (0)
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