堺の環濠3

豊臣秀吉はあまり裕福でない半農半士の家に生まれました。
右手の親指が生まれつき2本あって、当時、世間体を気にする家柄であれば出生してすぐ手術したそうです。

しかし裕福でない家だったせいか放ったらかしだったんでしょうね^_^

天下人として出世する中、手のことは周りも遠慮があったのか、記録にはあまり残ってませんが、

織田信長の秀吉への呼び名「六つめ」だったり
あまり秀吉のことを好きでなかったルイスフロイスの母国宛の手紙、
旧友の前田利家の書簡などには記載されています。

秀吉は再婚した母親の新しい父親とソリが合わず家を飛び出し、縫針の行商をしながら放浪へ。
このとき2000名規模の傭兵軍団の頭領「蜂須賀小六」と出会っています。
秀吉が人たらしで商才に優れていた人物であったのは間違いないでしょう。
織田信長が本能寺で斃れたあと、豊臣秀吉がその実権を握り天下を統一しますが、

晩年は秀頼を授かって以降、政策の評判はよくありませんでした。

有名な秀吉の辞世の句

「露となり、露と消えにし
我が身かな
浪速のことは夢のまた夢」
があります。

露のように生まれ、露のように消える自分。
大阪での栄華は夢を見てるようであったなぁ、、

どんなに波乱万丈、大出世しようとも人生って儚いものなんですかね( ̄ー ̄)

豊臣秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった徳川家康が江戸幕府を開きました。

幕府は全国のインフラなど街道の整備を進めていきます。世の中が落ち着いてきたところで

最後は莫大な財産をもつ「豊臣家」の解体に着手します。そんな中で幕府と
一戦を交える空気は高まり1614年11月、太閤秀吉の恩義を受けた大名、幕府の政策に不満をもつ者、浪人など

いろんな思惑で反幕勢力などが大坂城に集まり戦争準備をします。
そして12月戦闘が始まります。のちに冬の陣と呼ばれる戦いです。

真田幸村らの大活躍で優勢だった豊臣方ですがそのあとの協議で幕府側と和睦をむすび

大阪城の外堀を埋める約束がそのまま内堀も埋められ、門や櫓も破壊されてしまいます。
そして1615年4月、夏の陣に突入していきます。
この月に豊臣方大野道犬が徳川方の武器支援、兵站の役を果たしていた堺の町に火を放ちます。

堺の町は2万軒の寺社、家屋が焼けてしまいます。
怒涛の進撃で真田幸村、後藤又兵衛などの活躍で徳川家康を切腹の覚悟を2回させるくらいまで追い詰めますが

5月、主力の真田幸村など戦死、大坂城は落城して応仁の乱から150年続いた戦国時代に終止符がうたれました。

堺に火を放った大野道犬は6月、堺の王子が飢(現在の大阪刑務所あたり)で火あぶりの処刑になります。
お墓は刑場から明治に入って堺の月蔵寺に移されています。

月蔵寺の立派な土塀は、大阪夏の陣で焼かれた家屋の瓦が塗り込められています。

戦が終わって堺には長崎の奉行が堺に異動してきました。そして町の復興責任者である

風間六右衛門が着任します。

~この続きはまた今度~

↓月蔵寺の門と土塀


Filed under: 堺のお話,観光案内,運航日記 — kc-sakai 7:05 PM  Comments (0)
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