堺の環濠3

豊臣秀吉はあまり裕福でない半農半士の家に生まれました。
右手の親指が生まれつき2本あって、当時、世間体を気にする家柄であれば出生してすぐ手術したそうです。

しかし裕福でない家だったせいか放ったらかしだったんでしょうね^_^

天下人として出世する中、手のことは周りも遠慮があったのか、記録にはあまり残ってませんが、

織田信長の秀吉への呼び名「六つめ」だったり
あまり秀吉のことを好きでなかったルイスフロイスの母国宛の手紙、
旧友の前田利家の書簡などには記載されています。

秀吉は再婚した母親の新しい父親とソリが合わず家を飛び出し、縫針の行商をしながら放浪へ。
このとき2000名規模の傭兵軍団の頭領「蜂須賀小六」と出会っています。
秀吉が人たらしで商才に優れていた人物であったのは間違いないでしょう。
織田信長が本能寺で斃れたあと、豊臣秀吉がその実権を握り天下を統一しますが、

晩年は秀頼を授かって以降、政策の評判はよくありませんでした。

有名な秀吉の辞世の句

「露となり、露と消えにし
我が身かな
浪速のことは夢のまた夢」
があります。

露のように生まれ、露のように消える自分。
大阪での栄華は夢を見てるようであったなぁ、、

どんなに波乱万丈、大出世しようとも人生って儚いものなんですかね( ̄ー ̄)

豊臣秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった徳川家康が江戸幕府を開きました。

幕府は全国のインフラなど街道の整備を進めていきます。世の中が落ち着いてきたところで

最後は莫大な財産をもつ「豊臣家」の解体に着手します。そんな中で幕府と
一戦を交える空気は高まり1614年11月、太閤秀吉の恩義を受けた大名、幕府の政策に不満をもつ者、浪人など

いろんな思惑で反幕勢力などが大坂城に集まり戦争準備をします。
そして12月戦闘が始まります。のちに冬の陣と呼ばれる戦いです。

真田幸村らの大活躍で優勢だった豊臣方ですがそのあとの協議で幕府側と和睦をむすび

大阪城の外堀を埋める約束がそのまま内堀も埋められ、門や櫓も破壊されてしまいます。
そして1615年4月、夏の陣に突入していきます。
この月に豊臣方大野道犬が徳川方の武器支援、兵站の役を果たしていた堺の町に火を放ちます。

堺の町は2万軒の寺社、家屋が焼けてしまいます。
怒涛の進撃で真田幸村、後藤又兵衛などの活躍で徳川家康を切腹の覚悟を2回させるくらいまで追い詰めますが

5月、主力の真田幸村など戦死、大坂城は落城して応仁の乱から150年続いた戦国時代に終止符がうたれました。

堺に火を放った大野道犬は6月、堺の王子が飢(現在の大阪刑務所あたり)で火あぶりの処刑になります。
お墓は刑場から明治に入って堺の月蔵寺に移されています。

月蔵寺の立派な土塀は、大阪夏の陣で焼かれた家屋の瓦が塗り込められています。

戦が終わって堺には長崎の奉行が堺に異動してきました。そして町の復興責任者である

風間六右衛門が着任します。

~この続きはまた今度~

↓月蔵寺の門と土塀


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堺の環濠2

応永の乱は1399年(応永6年)10月13日、堺にて挙兵した大内義弘氏が
同11月21日幕府側の総攻撃により討ち死に、戦は収まりました。

大内義弘氏は減っていく手勢のなか、奮闘しますが最後の側近が討ち死にするとひとり敵陣のなかで

「天下無双の名将大内義弘入道、討取って将軍のお目にするがよい」

の大声を最後に討取られたとあります。

謀反のため大内氏は6つあった国のうち4つを没収されて弱体化しますが、
その後また盛り返して「西国一の戦国大名」と言われるまでに復活します。
大内家が滅んだのは応永の乱から200年ほどあとの1557年です。

さて防衛のため築いた「堺城」とその町並みは戦火に焼かれ、堺のまちは環濠を残し
焦土と化しました。
今でも2メートルほど掘るとその焦土層が出てくる場所があるそうです。

戦争により灰になった堺ですがもともと「遣隋船」「遣唐船」の進発港としての海上ルートと
新たに中国を模範にした律令制に基づいた律令国の「摂津国」「河内国」「和泉国」のさかい目という
「日本経済の要衝」という立地で復活はダメージの割に早かったと思われます。
灰になった堺が回復する大きなきっかけは応永の乱から5年ほどして誕生した「遣明船」です。

やはり住吉の浜から進発しました。

西暦600年ころから始まった遣隋使、遣唐使は、船のコンパスというものが無かったため、
出航したら中国大陸の方角に向い「だいたいこっちやろ?」で航海していました。。
船体の建造技術や天気予報の技術も今ほど進んではないので船で大陸まで行くのはかなり命がけです。
しかも船は「だいたい」の場所に着くわけで、大陸に到着してから目的地を探すという第二の難関がありました。
それに中国の皇帝や目的の人物に会えるまでもひと苦労です。
なんせ船で雨風にさらされて揺られて、挙句に目的地を探しながら徒歩の長旅でヨレヨレなった

見知らぬ一行に「皇帝に会いたいのですが~」と言われてもねー。

遣隋使、遣唐使のおもな目的は中国の政治手法や文化、文明、技術、宗教などを学んで日本に持ち帰ることが
目的でしたが遣明船のころはすこし進化しています。

それは
・原始的だが船のコンパスがあった(目的地到着の精度があがった)
・輸入もさることながら刀や鉱物などの輸出を行った。
遣明船が始まってしばらくたった1480年ころには堺の豪商からなる「会合衆」が中心となって

一部自治制を確立しました。

「自分たちのことは自分たちで」という気概は、応永の乱で丸焼けになったつらい経験と
その教訓を背景に高度な自治制、政治性をもって町の防衛体制を築きました。
実際、いくつもの環濠の橋には商人たちでお金を出し合って侍を雇い、見張りをさせていたそうです。
現代風にいうなら「セキュリティ抜群」の町です。

1481年に世間で噂話になったのが
「堺の福の女神が上洛して、京の男の貧乏神が堺に下向した」です^_^

堺の富豪の娘が持参金付きで京の貧乏公家に嫁ぎ、貧乏だが家柄が良い公家の息子が堺の富豪に養子にきた
というわけです。
実際は双方20名ほどの行き来きだったようですが当時の繁栄がよくわかるエピソードです。

1500年半ばぐらいからポルトガル人が日本に来るようになって、福岡、長崎、平戸が開港すると
そこにもいち早く堺商人は商業活動を行います。
また鉄砲は輸入だけにとどまらず豪商の今井宗久氏を中心に堺ブランドの鉄砲を製造する生産ラインを整えました。
そしてまもなく織田信長は堺の町を直轄地にします。

堺の商人たちは東南アジアなどに海外渡航も活発におこない堺の町は自治都市、国際都市として繁栄をきわめます。

しかし織田信長が本能寺で斃れ豊臣秀吉に時代が変わってしまいます。

まもなく天下統一を果たした秀吉は堺に対して厳しい統制政策をとり、環壕は埋められ堺商人の多くを大阪城近辺に移します。

いまの堺筋です。

そうして堺は自由都市としての機能が低下、弱体します。

ところが秀吉の亡き後3年後、1600年(慶長5年)徳川家康を中心とする東軍、豊臣方石田三成率いる西軍が関ヶ原で激突します。

そして徳川家康の東軍が勝ち征夷大将軍となって幕府を開きます。
そのときに堺は幕府の直轄領になりました。
豊臣秀吉によって埋められた応永の乱以来の環壕は、徳川幕府によって、さらに一回り大きくなって蘇りました。

この続きはまた今度( ̄▽ ̄)

↓灯台の窓より(横向きですみませんね)

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堺にゆかりのある二代目中村富十郎のはなし

前回「三味線」は堺の発祥であることと小唄の元祖「高三隆達」について触れましたので今回は歌舞伎について^_^
歌舞伎の人気が一般大衆に定着したころの1786年、大阪で中村富十郎が生まれました。子どものころから役者を始めて3代目中村歌右衛門に弟子入りします。メキメキと女形として実力、人気を兼ね備え上方、江戸の舞台に多く出演、2代目中村富十郎の名前を継ぎます。
常に大入り満員超人気者の中村富十郎は難波に当時住んでいましたので「難波の太夫」と呼ばれていたとか。
しかし天保の改革により状況が一変します。
幕府の決まりで役者は①家屋田畑を所有してはいけない②羽織袴を芝居以外では着てはいけないなどなど「贅沢禁止令」がありました。それに触れているとみなされます。要は役者ごときが贅沢するなという決まりだったようです。富十郎の難波の自宅は2600坪の豪邸で茶室が3つもあり使用人20名を抱えていたといいます。財産没収のうえ摂河泉三カ国追放(摂津、河内、和泉)となります。当時は島流しの次に厳しい処罰だったそうです。江戸の7代目市川團十郎も同じく江戸十里四方追放の処罰が下ります。それから中村富十郎は堺へやってきます。
堺は大和川の付け替え後なので和泉の国に位置していましたが堺奉行の支配下のため追放範囲に含まれませんでした。そして現在の南海堺駅南口から高架下をさらに南へ行ったあたりのところに住んでいました。富十郎は小間物屋を起業してたいそう繁盛したそうなのですが、周りの支援者から役者としての復活を熱望されて京都、伊勢、名古屋、江戸などへ巡業に出たりしました。その後、徳川家斉の死去によって市川團十郎は江戸十里四方追放を特赦されますが中村富十郎はゆるされないまま70歳で生涯を終えました。
現在、元住居跡は偶然にも大衆演劇の羅い舞座になっています。
ちょっと前に「利休にたずねよ」という映画がありました。武野紹鴎役に12代目市川團十郎さん、千利休役は市川海老蔵さんが親子で演じて評判になりました。
團十郎さんはそれが遺作になってしまいましたが来年は市川海老蔵が来年「13代目市川團十郎白猿襲名」の発表がありましたね^_^
昭和60年(1985年)、歌舞伎界が盛りあがる出来事がありました。それは当時市川海老蔵から12代目市川團十郎を襲名した時です。
團十郎の名跡が復活するのは約30年ぶりということもあり、その熱狂ぶりは襲名披露公演の劇場に勤めていた私(当時20歳)はよく覚えています^_^襲名披露公演で市川團十郎演じる「勧進帳」が豪快な荒事歌舞伎で、別の演目では六代目中村歌右衛門(人間国宝)が「沓手鳥孤城落月」で淀君の複雑な心境を和事歌舞伎ならではの表現をしていました。古い資料では1714年、4代目市川團十郎と初代中村歌右衛門が共演していた記録がありますので、この両者の組み合わせは300年の歴史があったんですね〜。
歌舞伎が興ったのは1600年ころ「かぶき踊り」が発祥と言われています。派手な格好をして常識を逸脱してる人間を傾き者(かぶきもの)と呼んでたようですが、彼らが茶屋遊びをするという行為をエロティックな表現で踊ったのがかぶき踊りだったようです。お茶屋を中心に拡がりそれから時間を経て発展して荒事、和事の歌舞伎が元禄時代(1688年~1704年)に確立しました。
荒事歌舞伎は幕府ができて全国からいろんな人々が集まって勢いがあった江戸で誕生しています。初代市川團十郎らが中心となって確立、メイクも衣装もド派手です。かたや和事歌舞伎はすでに商業の街が確立していた上方で、男女の関係や遊女との色恋といった艶っぽい演目が多かった。こちらは坂田藤十郎が中心となり確立したといわれています。
そのころから三都(大阪、京都、東京)をはじめ芝居小屋があちらこちらにできました。定芝居と宮地芝居という2種類の芝居小屋があって定芝居は常にある劇場、宮地芝居は公演巡業に都度つくられた劇場というイメージでしょうか。 堺にも大きなところでは1000名以上収容できた芝居小屋があったようです。

 

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堺の環濠1

室町幕府の体質は「有力守護大名のあつまり」の色が強く幕府の権力は弱かったみたいです。
その幕府の権力を 三代目将軍足利義満 は強化しようとします。
堺、和泉国、紀伊国(堺から和歌山県あたり)を治めていた大名は周防国、長門国(だいたい山口県)から豊前(北九州あたり)を治めていた大内氏25代当主「大内義弘」です。
大内氏は、朝鮮との交易で強大な富を築いていました。
大内義弘は将軍の命令により堺、和泉国、和泉国、紀伊国を治めていた山名氏を打ち破り、南北朝の和睦の功績が認められその3つの国を与えられます。
しかし6つの国を持つようになった巨大な守護大名「大内義弘」に対して
皮肉なことに足利義満は
「あいつちかごろ生意気やなぁ~」となりついに戦になってしまします。
仲が良すぎて仲が悪くなったんですかね・・
これを1399年応永の乱といいます。
その時に堺のぐるりに攻撃の足場を1800ヶ所、見張り台を48ヶ所を備えた環濠が誕生します。
そして周防国あたりからも船の応援を呼び寄せ、協力関係にあった勢力とあわせて応戦します。
一時優勢だった大内方でしたが堺が火攻めで劣勢になり、ついに大内義弘はこの堺で落命しました。
お墓は山口県の 瑠璃光寺にあります。
瑠璃光寺は大内義弘が建立したお寺です。
京都の醍醐寺、奈良の法隆寺、山口の瑠璃光寺は日本の三大五重塔といわれておりすべて国宝に指定されています。
これをきっかけに応仁の乱、戦国時代に突入しますが、ごの環濠は商業用の水路として、そしてこの町をまもる濠として堺の発展に大きくかかわってきます・・・
続きはまた今度mm

↓大内義弘氏が建立した堺の「妙光寺」

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遊覧船ガイドの話の稽古⑥「すみよっさん」の話

チンチン電車「宿院駅」からフェニックス通り沿いを東へちょっと進むと「大鳥大社住吉大社両頓宮」と書かれた神社があります。
「頓宮」とは神様がちょっと休憩する場所という意味です。
毎年7月終わりになると大鳥大社の神様が来たり、住吉大社から神様を乗せた神輿の行列が大和川を越えてここで神事が行われます。

この時は堺もお祭り騒ぎで大魚夜市が立ったり花火があがったり賑やかになります。

住吉大社は海の神様です。
なので私も船長当番の日に「とんぐう」へ立ち寄って少しのお賽銭で安全第一を祈願いたします^_^

住吉の神様、通称「すみよっさん」の起源は古く、イザナギが海で「禊」をした際に海面で「ウワツツ」海中で「ナカツツ」海底で「ソコツツ」という3柱の神様が生まれました。この3柱まとめて「住吉大神」とよびます。そのあとの禊でアマテラス、ツクヨミ、スサノオが生まれてるので伊勢神宮、出雲大社の神様よりチト先輩ということになりますかね^_^

余談ですが伊勢神宮はアマテラス、出雲大社はスサノオの末裔のオオクニヌシを祀っています。ツクヨミは月の化身とか夜を管理する神様と考えられています。

住吉大神を現在の住吉大社に祀ったのは神功皇后で西暦211年、1800年ほど前に創建したとあります。神功皇后はヤマトタケルの息子「仲哀天皇」の皇后(もとは正室ではなかったらしい)であり「応神天皇」の母であり「仁徳天皇」の祖母です。仲哀天皇と応神天皇の陵墓は古市古墳群に含まれています。

仁徳天皇の時代、浪速に遷都をして住吉の港(墨江)が開港されて以降、大和政権の重要な外交窓口となります。のち遣唐使の進発港であり、貿易、外交を通じて堺、大阪の大きな発展に繋がっていったことは史実の通りです。

のんびりクルーズのフェニックス号を停泊している出島の港にはたくさんの「住吉丸」の名前の漁船があります。

住吉大社にある600ほどある古い灯籠には「さかい」の漁業関係、問屋さんなど商業関係の寄進のものが多数みられます。
大和川が付け替えられる前は大阪、堺の線引きが今ほどはっきりしてませんでしたから住吉大社は「堺のすみよっさん」とよばれてたほど

堺には馴染深かったようです^_^

すみよっさんは初詣に220万人以上の人で賑わいます。

追記
太鼓橋を渡り境内に入ると
第四本宮が神功皇后
第三本宮がウワツツノオノミコト
第二本宮がナカツツノオノミコト
第一本宮がソコツツノオノミコト

を祀っています。

Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 10:58 AM  Comments (0)

遊覧船ガイドの話の稽古⑤お酒の話

お酒の話
昭和40年代の記憶では「汚いわがまち」がデフォルトになっておりました( ̄ー ̄)
ゴミ箱みたいで悪臭のひどい土居川。
水が真っ黒で一般のゴミやら動物の骨が散乱してる大和川。
そりゃまー汚かったですねー。
でも汚い水環境は戦後の経済成長のスピードに下水整備が追いつかなかったここ70年ほどの話。
じつは明治から大正にかけて堺の製造業で1番盛んだったのは酒造業でした。
阪堺電鉄が南北に走っている「大道筋」の西側から南は石津あたりにかけて個人事業含めて100近い酒蔵があったというので驚きです。
海の沿岸でミネラル豊富の美味しい地下水があったんでしょうねー( ̄▽ ̄)
堺の酒造は室町時代からすでに記録があり、江戸時代には最盛期を迎えて明治時代にかけて6万石(一升瓶600万本相当)の生産高を誇り当時、灘、西宮、伊丹、堺ほか「摂泉十二郷」と呼ばれておりました。1879年(明治12年)堺の酒造家の鳥井駒吉さんが中心となって堺酒造組合を設立、酒蔵の火災保険会社、精米会社、酒造改良試験所など設立、醸造技術を進化させました。そして1887年(明治20年)共同醸造場を設立しコスト削減を実現。また酒容器では初めて瓶詰めで商品化して1888年(明治21年)バルセロナ万博に出展、それから日本酒はアメリカ、ロシア、朝鮮、ハワイ、台湾、沖縄などに輸出されるようになり外貨獲得で大いに貢献いたしました。
しかし、、1887年(明治20年)あたりから良質な水が不足するようになり仕込水を灘、西宮に頼ることが増えてきました。
また建物が密集している堺では酒造のための土地拡張が難しい。そのためどんどん酒蔵は灘へ引っ越し、95あった酒蔵が20ほどになります。
戦時中、酒造の制限もあって一つの会社にまとめられますが、のこった 酒蔵も空襲でかなりの被害がでました。
そして1966年(昭和41年)ついに堺のすべての酒造業は灘に移されて消滅しました。
灘で作られていた堺の銘柄「金露」、「都菊」も後の神戸の震災で被災、なくなってしまいました。
しかし近年、地酒復活に情熱を注いだ堺泉酒造さんが たいへんな苦労の末、2014年に「千利休」を蔵出ししています。いまも「フェニックス堺」の気概が受け継がれています^_^
Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 10:26 AM  Comments (0)

遊覧船ガイドの話の稽古④浜辺の飛行場の話

遊覧船を停泊してる大阪府堺市の出島漁港に「航空輸送発祥記念碑」という碑があります。
ライト兄弟の有人動力飛行の1902年から20年経った1922年に井上長一さんが「日本航空研究所」という日本最初の民間航空会社を設立しました。
滑走路を作ると莫大な費用がかかるので水上艇で出島の海から白浜、徳島、大分に人や荷物を乗せて飛んでいました。
その頃の客室乗務員の呼び名は「エアガール」^_^。お客さんにビールなど提供してたようです。
しかし当時は戦時中で「空の旅など贅沢は国の敵」という風潮もあり業務停止を国から余儀なくされます。
このとき井上長一さんは「我が子を葬られた」と無念であったようです。
しかし終戦7年後の1952年から井上長一さんは「極東航空」という会社を立ち上げました(これは堺ではありませんが)。やがて1958年に東日本を中心に航路をもつ「日本ヘリコプター運輸」と合併します。
これが現在の「全日空」です。
※全日空のNHの表示はこの日本ヘリコプターの略です。
全日空の祖先が堺の海とは( ̄▽ ̄)
Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 12:20 PM  Comments (0)

遊覧船ガイドのお話の稽古③日本最古の私鉄の話

むかし南海本線堺駅東側ロータリーに吾妻橋すてんしょ
(ステーションと停車場を組み合わせた呼び方)がありました。
1872年明治5年に日本初の官営鉄道が新橋~横浜間で開通しました。
1877年の西南の役で政府が財政難となり、それから半官半民の形で鉄道が増えてきました。
堺のシンボルである大浜の灯台もこの年にほぼ民間の資金で誕生しています。
日本で初めての純資本民営鉄道は1884年設立の大阪堺間鉄道、
今の南海電気鉄道で、当時の発起人19名のうち12名が堺の人です。
豆を使って人や荷車の通行量を計算して、「これは採算が取れる」ということで事業化が決定したそうです。
1885年に難波~大和川北岸が開通。
しかしまだまだ鉄道の認知度は低く「鉄道」とは火を噴く恐ろしいものであり、
人力車の稼業を邪魔するものという誤解もあり、工事を人力車の会社が人夫を使って妨害する事件があったりと、すんなりいかなかったようです。
大和川の橋梁工事では洪水や、イギリスから取り寄せた鋼材を積んだ船が暴風で遅延など大変な苦労の末、3年後の
1888年に難波~吾妻橋間が開通しました。
その後1903年には吾妻橋~和歌山開通となり、
1907年には難波~浜寺公園まで電化が完成。住之江に発電所があったそうです。このとき鉄道車両では日本初の扇風機が搭載されています。
1936年にはこれまた鉄道車両では日本初の冷房車が誕生しています。(現ダイキン製)
当時ダイキンは起業したばかりのベンチャー企業で、23度で冷房が切れるなど斬新な機能が搭載されていたようです。
新聞にも取り上げられて大盛況だったのですが、混雑して車内は暑かったようです。
また戦時中の「贅沢は国の敵」という風潮もあり1年で姿を消しました。
吾妻橋という地名ですが1790年から20年かけて堺旧港の修復工事で大変功績がある東京浅草の商人「吉川俵右衛門」という方が住んでいた所。
東京→東(あづま)の人の住まいということで吾妻橋(あづまばし)となりました( ̄▽ ̄)
Filed under: 堺のお話,観光案内,運航日記 — kc-sakai 12:14 PM  Comments (0)

遊覧船ガイドのお話の稽古②三味線の話

堺の貿易が盛んだった1562年。琉球から堺の港へ来た船乗りがお土産に珍しい弦楽器を持ちかえりました。
蛇皮の丸いボディに2弦(もともと3弦のうち1弦切れてたかも)を張ったサムシェン(三線)と呼ばれるその楽器は、中国から琉球に伝わり当時はすでに琉球内で普及しておりました。
このお土産をヒントに堺の盲目の琵琶法師が弦3本、太く長い棹(ネック)、四角くしたボディに猫皮を張り、大きな撥(巨大なピック)で弾くように仕様改造したのが三味線の始まりです。
盲目の障害を克服して収入を得るため、琵琶法師に盲目の方が多かったんです。。
琉球からきたそのサムシェンのサイズでは琵琶より小さいため、演奏の感覚が慣れている琵琶のサイズに改造しました。
さて1527年、「高三隆達(たかさぶりゅうたつ)」という人が堺で生まれました。
隆達の祖先は12世紀に中国から九州に渡来、そのあと堺にやってきて薬種商を営んでいました。
隆達は子どものころに日蓮宗顕本寺(宿院にあります)で出家、仏道を修行する一方で、声曲、連歌、書画に非凡な才能を発揮していたそうです。
芸能が大好きだった豊臣秀吉からのリクエストで歌や自筆の書を呈上してたいへん喜ばれたとあります。
やがて古歌や自作の詞にオリジナルの節まわしをのせた「隆達節」というジャンルを確立します。その曲の数はなんと500曲超え。
曲調は文字数7→5→7→5..の詞を繰り返しの形式。いまの小唄です。歌詞は恋愛感情や男女の機敏な関係などが多く、また戦乱や疫病の時期の作品では「人生一度だけ、、」的な曲もありました。
堺で開発された三味線が全国に展開する時期と相まって、新鮮で堅苦しくない「隆達節」は全国に受け入れられて広がっていきました。
隆達さんてシンガーソングライターでもあるモダンなお坊さまだったんですねー( ̄▽ ̄)
三味線は日本を代表する楽器のイメージがありますが古代からあった琴、琵琶、太鼓、笛などに比べるとずーっと新しい楽器になります。
やがて時代とともに和事歌舞伎、荒事歌舞伎、義太夫、人形浄瑠璃、落語、民謡、漫才などに幅広く用いられていきます。
また持ち運びが便利なように棹が3分割します。
ギターがポピュラーになる前は、宴会では
みんなが集まれば三味線で盛り上がったりしていました
Filed under: 堺のお話,観光案内 — kc-sakai 11:38 AM  Comments (0)

遊覧船ガイドの話の稽古①大和川の話

大阪市と堺市の間にある大和川はもともと奈良から流れてきて石川と合流、河内平野を通って淀川に流れていました。
その川を中心に古代から田畑が開かれてましたが天井川のためたびたび川の氾濫、洪水があり、奈良時代から治水対策の工事が行われていたと記録にあります。
洪水の被害を解決すべく「大和川付け替えの嘆願書」と「付け替え予定地反対の嘆願書」が双方の地元農家などから提出されますが1703年、幕府が工事費をほとんど負担する形で現在の大和川の付け替えが決定します。
このとき堺の商人たちの反対が思ったより少なかった背景として、貿易よりも金融業にシフトしていたためという説があります。
8か月という早さで1704年に付け替え工事が完了してから旧大和川のまわりでは50ヶ所以上の新田が開発されて、年貢が増え5年後には幕府の負担費用の補てんができました。
逆に完成した大和川が運んでくるたくさんの土砂によって堺の河口では4ヶ所の新田ができましたが、中世の繁栄のシンボルだった堺の港は埋没してしまいました。
その様子をみてなんとかしなければと立ち上がった人が江戸浅草の商人「吉川俵右衛門」でした。
吉川俵右衛門の呼びかけにより地元の協力者などを取り付けて1790年から約20年がかりで堺の港を修復します。これが現在の堺旧港の原型です。
先人の治水と港復興の苦労の歴史に感謝しつついまもある自然災害の被害にあわれた皆様へ心よりお見舞い申し上げます。
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